■ノアは神と共に歩んだ/創世記6:6~22
- 旧約聖書/創世記
- 2019年11月24日
- 読了時間: 4分
私が「ノア」のことを、どうして知ったのかというと、おそらく小学校低学年だったと思う。
終戦後6年~8年頃の時代、思い出はすべて赤茶けた景色の中に埋もれて行った。
兎に角、貧しい。
麦飯のおかずがない。
皆が無いのだから愚痴も出ない。
そんな時代でも、生きようとしている社会のエネルギーは、子供ながら感じていた。
小学校の図書室は私にとって、宝物の部屋だった。
だから「6年生の終わりまでには図書室の本を全部読んでやろう。」と思っていたことだけは鮮明に残っている。
33歳で教会に通い始めたが、つんぼ桟敷を決め込んでいたためか、何も変わらず二カ月と12日が経った。
初めて前向きな気持ちで創世記を読んだのが神話なのか作り話なのか、という思いでピンと来なかった。
しばらく読み進んでから「ノア」という名前に出会い、子供の頃に別れた友達に出会った思いがした。
そんなノアに惹かれて読んでいると、アブラハムの信仰の記事まで大した時間は要らなかった。
つまり面白かった、のである。
初めて前向きに、自分の思いに導かれるまま聖書に向かったという具合である。
そして、その晩の内に私はイエスを受け入れた。
ノアの時代は堕落と暴虐の時代だった。
「主は人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」と聖書はいう。
しかし、ノアだけは主の心にかなっていた。
ノアは神と共に歩んだと書いてある。
だが、ノアがガチガチの堅物で融通の利かない人かというと、そうではないと思う。
要するに「主を仰ぎ、主と共に生きた。」のである。
現代に生きるクリスチャンに思うこと。
正しく清廉潔白に誰からも好かれる善人として生きるべきだなどと、聖書は書いてない。
聖書が言っていることは、「主を信じなさい、主と共に生きなさい。」が、動かぬ根底である。
人間はそれしかできないし、それが出来れば最高だとさえ思う。
主と生きるなら、主と生きる生き方を知るだろう。
すると、自分勝手な生き方が、身に染みてわかるものだ。
自己虫で生きると、自分勝手がわからなくなる。
自分の我が儘し放題でしかないし、渦巻きの真ん中の自分しか見えない。
「イエスと生きたい」と思うだけで、何となく開放された気持ちになれる。
そして日々一歩ずつ、イエスの御名を身近で呼び、イエスの歩調とリズムに自分を合わせて行きたい気持ちにもなる。
そう考えると、祈ること自体が照れでなく、堂々と生きられる様にさえなる。
つまり、自分が努力などしなくてもイエスと生きられるのである。
ある意味、イエスという私にとって価値観最高の方こそ、私の救い主であるからだ。
すると、自分がどれだけ自己虫であったかも如実に理解出来るし、自分はおぞましい者なんだと認めることさえ出来る。
実に自由である。
堅苦しいことなど感じない。
イエスが一緒だからである。
神はノアに箱舟を造りなさいと仰せられた。
目的は、主が地上のすべての生き物を滅ぼし尽くされるからだ。
だからこそ、ノアとノアの家族だけは救いたい、と思われた。
ノアの生き方で素晴らしいというべきか、実に立派だと、と思う点は「世と世の人々には一切流されない」ことだった。
これこそ、私たちがどうしても為せないことである。
世びとが陰で何を言おうと、仮にあからさまに彼をなじろうと、ノアは自分の生き方を生きた。
これこそノアが主にあって生きられた最大の理由である。
次に、ノアは箱舟造りに関して徹底的に、主が示した遣り方だった。
一つとして、自分の気に入る方法を取ってはいない。
箱舟がずん胴で可笑しな格好だろうと、主の言われた通りの外形、造作だった。
箱舟は航海する必要がない。
旅行するのではないのだ。
階段も要らない、戸口は各階についているだけでよい。
窓はせいぜい天窓くらいのものであった。
長さは132m、幅は22m、高さは13m、内と外には木のヤニで隙間を塞いだ。
舟は水が入らないことと、浮かぶことだけが不可欠だった。
浮かぶとは、地上(世そのもの)から浮かび上がることで、それ自体がノアの生き方だった。
世の道理と価値観ではなく、神の価値観と神の道理だけでよかった。
さて、私達クリスチャンはどれだけ「ノアの箱舟」から学んでいるだろう。
まさか「子供だましのお話し程度」にしか思っておられないことを信じたい。
聖書の言葉を聞き逃さないのがよい(創世記6:17)。
『わたしは今、いのちの息のあるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。』
創世記6章の最後。
『ノアはすべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。』
今、私たちは果たしてどうだろう。
仮に行わなかった、とするなら、神がせよといわれたことの正反対を行っているのだろうか。
聖書は常に主の警告を書いている。
イエス然り・・・である。
読み逃してはならない。
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