■霊妙なる主の調べ/創世記11::22~32

遠い昔、創世記の時代、ある家族が慣れ親しんだ故郷ウルを後にした。 ウルという町はペルシャ湾に向かって流れる二つの大河、ティグリスとユーフラテスが一つになって合わさる一歩先にあった。 土地は肥沃で、貿易も盛んな町はカルデヤ人の住む町として、月神礼拝が中心の生き方だった。 人が増えれば文化も賑やかとなり、また風紀は乱れ、求める快楽はより派手になっただろう。 そういう町は多くの人の心を虜にした。 そういう町に住んでいたテラと言う人はようやく重い腰を上げた。 息子のアブラムが父テラを説得し始めて一年超、家族はカナンを目指して旅立ちの支度を始めた。 アブラムは月を神として生きる民から、いつかは逃れたいと思っていた矢先、夢か幻の中で聞いた声が忘れられなかったのである。 「あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に生きなさい。」 アブラムはその声を無視することが出来なかった。 実に明快で自分の思いと重なった。 だが、彼はふと思った。 「あの声はやはり自分の心の声だったのかも知れない。」 敢えて忘却の彼方へ押しやろうとしても、その言葉を打ち忘れることは出来なかった。 聞いてから二か月後、彼は思い切って父のテラに申し出た。 但し、それはあくまで進言としてのものだった。 高齢となった父を変に刺激したくないという思いがあった。 或る意味、それが分かっていたので、アブラムは日数をおいては、じわじわとテラにせがんで見た。 このことが、もし神からの招きであったなら、父はいつか受け入れてくれるかも知れない。 そう思うアブラムの心は妙に軽くなるのである。 そして一年後、いつになくテラが声を掛け

■キリストは我がすべて/ヨハネ14:16~27

イエスは言われた、「わたしが道であり、真理であり、命である。」ヨハネ14:6a 非常に有名な聖句、信仰に入った40年前から気に入っていた。 あれから何十年も経ってから考え直した、というより改めて聞かされたかのようだった。 そして思わぬことに気がついた。 イエスが言われたことは「わたしがあなた方に新しい道を教えよう。」ではない。 「わたしがあなたに真理を教えよう。」でもない。 「わたしがあなたに永遠の命への道を示そう。」でもない。 わたしが、このわたしが道である、真理である、命である、と言われていた。 ずっと前、イエスこそ素晴らしい宣教師だと思っていた。 神の国を分かり易く伝えてくれた。 たとえを用いて難解な神の国を説明され、どうしたら其処へ行けるのかを教えてくれたと考えていた。 何十年も、そう思っていた。 思い込みだったのか、読み間違ったのか。 彼が道!そうだよな、確かにそう言っている。 彼は案内書や手引書など用いない。 こ難しい説明などしていない。 条件も資格も問うてはいない。 「わたしに来なさい!」「わたしがそれだ!」と仰っている。 何かが弾けて飛んで行った、そんな思いがした。 私は何十年もキリスト教をしている。 だが、本当にキリスト教をしていただろうか? もしかして、キリスト教という宗教であって、生きた信仰はしていなかったのかも知れない。 仮に、そこまでは言わないとしても、である。 何か大きな点が欠けていたと感じた。 ふと、思ったこと。 それはキリストとは「メシヤ」つまり救い主である。 ギリシャ語でなく、ヘブライ語で表現するとしたら「メシヤ教」になる。 何となく新興宗教っ

■あなた次第/ルカ 6:6~11

人生はその人次第である。 確かにこの世は思うように行かないが、取り敢えず自分の人生は自分次第である。 私自身、クリスチャンになった時から、信仰の道が自分の思い通りにはまったく行かないことを悟らされた。 聖書を読み程に、聖書の言葉が理に適っているというか正しいのである。 自分はと言うと、何から何まで反聖書的な生き方だった。 そのことだけで自分勝手過ぎたと知らされた。 やがて自分次第で生きる訳には行かずと、聖書に沿って生きることの方が人間らしく思えて来た。 それは当然であるが何となく腹立たしいと思った。 誰に対して?自分とキリストに、である。 今まではしたい放題、やりたい放題が自由と思っていたが、イエス・キリストの道こそ自分が生きる道だと思うと、妙に落ちつかない。 何も教育勅語を読んでいるわけではない。 道徳倫理を学んでいるわけでもない。 聖書とは非常に起伏に富んだ物語であるかと思うと、その隙間、合間に生々しい生き方をする人々がいて、何と私自身の人間探究の手引書の様であった。 神性?神聖?というより人間臭さが、やたらと匂って来るし、極力同感でもあるし、生まれて初めて体験するコイツはまさに神のベストセラーであると思った。 真面目くさっているのでもなく、ふざけているのでもない。 『そこまでしても良いけど、その先は駄目だよ。そこから先は自分で決めなよ。』 「そこ」も「その先」も、自分で見極めなさい。何が良くて何が悪いのかも。 『何でも出来るんだよ、何をしてもいいんだよ。但し、自分の徳と自分の益になることを第一に考えなよ。』と言われた思いがした(1コリ6:12)。 あの日、私は『キリストが

■時空を超えて/申命記34:1~12

毎年晦日から新年へと明けて行く時期になると、私には決まって込み上げる感情がある。 ネボ山の頂上、ピスガの頂から、約束の地を見渡すモーセ、はるかに北から南まで、遠く西の海すなわち地中海から足元に控える死海まで、カナンの地は彼の目にどう映ったのか。 そして迫る死をどの様に受け止めたのか。 イスラエルの民は期待に胸躍らせている中で、なぜ自分だけが・・・ 聖書はモーセの心と思いに対して、一言も語っていない。 夢にまで見た故郷は静かに横たわっていた。 400年間エジプトで暮らしたヤコブの末裔は100万にも膨れ上がっていた。 その後、民は40年の荒野の旅を経て、世代は大きく入れ替わっていた。 遂にたどり着いた約束の地は、文字通り目と鼻の先ほどの距離だった。 しかし神はモーセだけを、約束の地に踏み入らせなかった。 そのため主はモーセを山に登らせ、同胞が踏みしめる約束の地を見させ給うた。 そのこと自体、モーセに死が迫ったという証しでもあった。 聖書は言う、「モーセが死んだとき120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記34:7) であるなら、なぜ神はそこでモーセに死を迎えさえたのか。 40年間、この場面を読む度に疑問が残った。 それらしき理由を聖書が書いているにせよ、納得するには程遠い感情が消えなかった。 モーセはさぞかし残念であったろう、無念であったろう。 しかし、いのちの息を支配するは神である。 神がお決めになったのであれば、人は否応なく従わざるを得ない。 クリスチャンも、そうで無い人も同様である。 一年という時間の「先っぽ」に立たされて、今から生きる365日な

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