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■人生、幸せの基盤/マタイ1:18~25

クリスマスというと、クリスマス・ツリーが主体であった戦後の日本、といっても子供時代の私の環境でしかない。

山に入って、小さな「もみの木」らしき物を取ってきて、銀紙と綿を葉に乗せ、らしきものを作った。

らしき物だらけでイエス不在、サンタ不在のクリスマス。

初めて教会のクリスマスを体験したのが33歳、印象はというと、皆で集まってお祭りしている感じ、特に何がということはなかったが、クリスチャン達が全く普通の人であったということ。

そういった意味で、それまで持っていた私の中での嫌悪感とか偏見が失せてしまったのもあの晩だった。

人が顔と顔を合わせることは何よりも必要で、大切なことだと思った次第である。

心の蟠り(わだかまり)など、みじんに砕けて消えゆくものだ。

心の中であれこれ考えたりしないで、顔と顏、ご対面がいい。

それはイエスさまに対してもなんら変化ない。

イエスを知るには聖書を通してイエスに出会うことが一番だ。

と、いうことを、遅まきながら知らされた。

このクリスマス・シーズン、世界で何人がイエスさまと出会うのだろう。

赤子のイエスかもしれないが、出来れば大人のイエスに出会って欲しいと思う。

そうでなければ、信仰の資質が変わらないからだ。

キリスト信仰が始まらないからだ。

ヨセフとマリヤ、二人の人生は神によって右往左往させられ揺さぶられた。

「神によって」というより、「私たちの罪によって」というべきであろう。

人間の罪を洗い清めるのは、「イエスの血潮」でしかない。

どうしたら、そんなことが可能なのか。

罪なき方は神しかいない。

では御霊なる神が、どうしたら血を流せるのか。

そうやって辿っていくと、やはり神の子が地上に生まれるしかない。

罪なき御子をどうやって降誕させられるのか。

ひとの世の救いであるから、人間の女性、純粋無垢で純潔な処女以外にない。

消去法は進んで行った。

別の難問。

更に何よりも彼女を理解し、支える夫は・・・それこそ主に向かって正しい人、最終的にこれが条件。

ガリラヤの町、ナザレに生きる男女こそ、創造主が待ちに待ったカップルだった。

その瞬間から、ヨセフとマリヤは「一切自分たちの為ではなく、ひたすら神の御意志に添ってのみ生きる」人生を歩み始めた。

私たちは信仰の人生に於いて何らかの事情の一つに「私の為」「この人生の為」というものは決して消えない。

人生を投げうって献身、もあるだろうが、「ヨセフやマリヤのそれ」とは比較にならない。

要するに彼等には「否応」の余地が無かった。

すべては主の御意志の通り。

ぶっちゃけて言えば、「主の言いなり」であった。

目的は「主の民の救い」、胎の子は男の子、名前はイエス、やがてはインマヌエル(主、我等とおられる)と呼ばれる。

何から何まで主が決められた。

ヨセフは特に辛かったであろう。

何処の誰の子か?当然である。

彼が神と人の前に真っすぐな人であればあるだけ、心は波立ち頭は割れんばかりであったであろう。

そんな矢先、

「ヨセフよ、恐れないで、マリヤを迎えよ。その胎に宿っているのは聖霊によるのである。」などと、一方的に言われて、世の男性の誰が「はい、了解です。」と、二つ返事でいられるだろう。

聖書は言う、「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおり、その妻を迎え入れ

た。」

彼はまったく違った。・

マリヤにせよ、とんでも無い問題を背負わされた。

凡そ、13歳、14歳の少女であったろうが、いきなり訳の分からない状況に巻き込まれた。

彼女にせよ、ヨセフにせよ、人間の頭で考えたとしたら、どうやっても解決に至らなかった。

この二人の人生を読んでいると、人には不可能でも御霊の神が主導されるなら、必ずゴールがあるということ。

何故なら神がハンドルを握っているのであって、人間が舵を取っているからではない。

どこへ連れて行かれるか、人間は分からなくても、すべてをご存じの主が漕ぎ手であるから大丈夫なのだ。

信仰とは「主が我らと共におられる」のだから、主にすべてをお任せしようということに尽きる。

すべてである!

人が選り分けするのでもない。

すべてである。

彼らは何一つとして、誰かに相談出来る者はいなかった。

なぜかというか、「彼らの秘密」をまともに聞いて信じる者などいなかったからだ。

マリヤにとって、神の御意志が判明できたのは、イエスが死んでよみがえられた時点が初めてだった。

イエスの子供時代、青年期、公生涯、ずっとずっとわからなかった33年間。

何をどう考えても明快なものは無かった。

それが、あのイースターの朝以降、緞帳が一気に巻き上げられたかの様にすべてが理解されたのである。

世界で一番祝された女性、マリヤ。

世界で最も悩み苦しんだ母マリヤ。

この世の生き地獄の果てで、神のパラダイスを体験したマリヤ。

主の御意志を最も深く悟らされたマリヤ。

主は人間の学問の対象ではない、信じる対象であって他にない。

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