検索
新約聖書/第Ⅱコリントびとへの手紙
- 2019年5月26日
■内なる人、外なる人/第二コリント4:16~18
1994年5月29日、つまり25年前に調布南キリスト教会の牧師として招かれた日は、とても良いお天気だったことを思いだす。 その天気とは裏腹に私の内は霧深く先がまったく見えない思いだった。 折角望まれて招かれたけど、「持って二年、早けりゃ1年・・かな。」が私の正直な腹の内だった。 自分では望みもしなかったけど、イエスが私の手をひっぱり、背中を押された10年だった。 38歳で、どうしようかと迷い始め、44歳で神学校入学、49歳で卒業したが、確たる思いなど殆ど無かった。 もしかして無かったことが良かったのかも知れない、と今は思っている。 何もなければ、見えないイエスを手探りで求め、橋があろうと無かろうと信じて一歩を踏み出すしかない。 何ごとも体験、イエスを信じて今日を生きるしかない。 毎年のこと、自分の中で一年に一度思ったことは、五月の終わりの日曜日、この教会に「あれほど嫌で逃げ回った牧師職に足を突っ込んだ記念の日」ということだ。 「ああ、また一年持ったんだ・・」いや、イエスが持たしてくださったのだ。 今週26日の朝、教会がサプライズのお祝いをしてくれ
新約聖書/ピリピびとへの手紙
- 2019年5月19日
ターゲット(target)/ピリピ3:12~14
パウロと私達とに類似点があるのだろうか、と考えたら多いにあるものだ、と知った。 例えばピリピ3:12節aにこう書いてある。 『私は既に得たのでもなく、既に完全にされたのでもない。』 きっと、あなたも同様であるだろう。 次に13節aにはこう書いてある。 『兄弟たちよ、私は、自分は既に捕えたなどと考えていません。』 やはりアーメンである。 では、パウロは何を捕えようとしているのか、それは「イエス・キリスト」そのお方である。 あの大使徒のパウロと私達にこれほどの共通点、類似点があろうとは・・・嬉しかった。 だが、これらの言葉の後に続く文章を読むと、かなりの相違点があることに愕然とした。 12節の後半、『私はただ、捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えて下さったのです。』 彼自身、自分は既にイエス・キリストに捕えられたと告白した。 果たして現代クリスチャンの幾人がこういう言葉を吐けるのだろう。 13節の後半にはこうある。 『ただ、この一事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向か
新約聖書/ピリピびとへの手紙
- 2019年5月12日
■栄光からの脱出/ピリピ3:4~11
1960年、「栄光への脱出」という映画が作られたが、そのタイトルは物凄くインパクトがあり、多くの日本人は覚えておられるだろう。 私など映画は知らなくてもタイトルは知っている。 (と、いうことで早速DVDを注文した次第です。) 今週の礼拝メッセイジ・タイトルは「栄光からの脱出」である。 映画のタイトルとは意味内容が真逆となったわけである。。 使徒パウロは文字通り、この世の名誉、宝、地位、将来を、かなぐり捨て、この世の栄光から脱出すべくキリストの奴隷になった。 彼に於いては、しもべ以下の奴隷が良いと判断したのであろうが、すごい人だ! 何がパウロをそこまで指し向けたのか。 それは彼が別の偉大な宝を手にしたからである。 パウロが手にした宝は、この世の価値観では到底収まらないものである。 幾ら金を積んでも手に入らない。 幾ら努力しても手にすることなど出来ない。 実際、それを手にした人だけが・・・否、今日まで多くのクリスチャンが去来したが、パウロには届かないのだ。 当然、各言う私とて、とてもとても遠いものである。 慇懃という言葉がある、意味は礼儀正しく丁寧な
新約聖書/ヨハネ福音書
- 2019年5月5日
■あなたはわたしを愛するか?/ヨハネ21:12~22
ガリラヤ湖の淵をゆっくり歩く弟子達、そして復活のイエス、どうイメージしても考えてもそれを画にするのは難しい。 よみがえりのイエスを画家はどう描く? 朝食後立ちあがり、歩き始めたイエスが思い出したかの様にシモンの顔を見て言われた。 「ヨハネの子、シモン。あなたはわたしをアガペーするか?」 ここではLOVEとか愛という言葉は相応しくない。 (無条件で無限に、わたしを愛するか、という意味合い。) シモンが答える、「主よ、私は私の可能な範囲で、あなたを愛します。」 それが彼の精一杯の返事だった。 (フィレオ―という言葉、自分の可能な範囲で、つまり条件付きなのである。) イエスが役人に捕えられる前、シモンはイエスに向かって言いきった。 「主よ、私は終生あなたと一緒にいます。仮に死ぬ時もあなたと一緒です。」 イエスはシモンの顔を見やりながら言われたものだ。 「シモン、あなたは三度、わたしを知らないと言う。」 「いいえ、とんでもないです主よ、他の者がどうあっても、私はあなたと死ぬまで一緒です。」 その言葉から6時間後、シモンはイエスを三度「俺は彼など知らない」