■内なる人、外なる人/第二コリント4:16~18
1994年5月29日、つまり25年前に調布南キリスト教会の牧師として招かれた日は、とても良いお天気だったことを思いだす。
その天気とは裏腹に私の内は霧深く先がまったく見えない思いだった。
折角望まれて招かれたけど、「持って二年、早けりゃ1年・・かな。」が私の正直な腹の内だった。
自分では望みもしなかったけど、イエスが私の手をひっぱり、背中を押された10年だった。
38歳で、どうしようかと迷い始め、44歳で神学校入学、49歳で卒業したが、確たる思いなど殆ど無かった。
もしかして無かったことが良かったのかも知れない、と今は思っている。
何もなければ、見えないイエスを手探りで求め、橋があろうと無かろうと信じて一歩を踏み出すしかない。
何ごとも体験、イエスを信じて今日を生きるしかない。
毎年のこと、自分の中で一年に一度思ったことは、五月の終わりの日曜日、この教会に「あれほど嫌で逃げ回った牧師職に足を突っ込んだ記念の日」ということだ。
「ああ、また一年持ったんだ・・」いや、イエスが持たしてくださったのだ。
今週26日の朝、教会がサプライズのお祝いをしてくれた。
家内共々、教会と共に喜び、感動の朝をいただいた。
今から先、先を思わず一日暮らし、一週暮らしの牧師生活を生かされよう。
それが一番!と、喜びを「内なる人」と共有した。
パウロが言った、「外なる人は衰えても内なる人は日々新しくされる。」
(第二コリント4:16)。
好きな言葉である。
おそらくパウロの視界には未だ入らなかった「外なる人」という存在。
ウォッチマン・ニーという先生は20世紀中ごろに中国で獄死(殉教)された。
中国共産党の文化大革命の波は、二―師の命を削ぎ落とした。
「内なる人」とはクリスチャンであるなら、すべてイエスを内受した筈の人々である。
私たちは内なる人の呼びかけと働きで信仰生活を生きている。
「外なる人」とは私達の生まれ持った性質、人間性、人格等々を支配下に置く自分と言えるかも知れない。
つまりキリスト者すべては「外なる人」と生きている次第である。
問題は外なる人が、内なる人の働きをさえぎる、邪魔する、押しとどめる、ことにある。
内なる人は、その為にしたいと思うことが出来ない。
厄介な点は、外なる人には強力な助け手があるということだ。
それは誰あろう、私という存在である。
仮に、私自身が内なる人をサポートし、霊性を表に出せるなら、別に大した問題にはならない。
だが、私自身が期せずして内なる人の声と叫びと行動を抑え込んだとしたら、内なる人は何も出来ない。
仮に外なる人が神によって砕かれるとしたら、私という人間はイエスに容易に仕え、御ことばに従い、彼について行く者、従順な「しもべの道」を歩み続ける者となるのである。
と、NEE師は言う。
先ず思う事。
外なる人は私である。
外なる人はやがて朽ち果てる存在である。
外なる人は神の国に入ることは出来ない。
それは文字通り、クリスチャン信仰に入って間もない頃に憧れた道行きであった。
イエスに対するまったき従順、すべてを捨ててもイエスに従う人生に憧れた。
正義感ギラギラ駆け出し丸出しの頃の未熟な時であったが、幼いが故に行くべき「イエスと生きる道」が正確に見えたのかも知れない。
あれ以降、時間と共に何となく何処かに忘れて来た純粋な信仰。
ウォッチマン・ニー(WATCHMAN・NEE)
『今日私たちが直面している問題は、私達が絶えず神を阻んでいることです。聖書を学ぶことにおいてさえ、私達は神を阻み神の自由を制限しています。外なる人が砕かれていなければ、外なる人は内なる人の意志に従おうとしません。外なる人は、内なる間隔や内側の霊に対して服従しません。外なる人が内なる人の感覚を探ろうとしても、何も見出せません。私達は外なる人が聖書の言葉の務めに対する最大の障害になっていることを、覚えておかなければなりません。』 WATCHMAN NEE 著「霊の解放」より抜粋
THE BREAKING OF THE OUTER MAN AND THE RELEASE OF THE SPIRIT.
(副題・外なる人が砕かれて霊が解放される。)
冗談?
異端?
福音への挑戦?
第二の解釈?
だが、私がクリスチャンとして生きる人生で幾度も体験し、実感したのは「外なる人の力」だった。
そして今尚、働き続ける存在は文字通り、反キリストの霊と力に思えるが、その張本人が私自身であるとは・・・。
W・ニー師、神学校にも行かず、その霊性が養われた秘訣は古き時代の霊的リーダー達の著書と宣教師から賜ったキリスト信仰のみ。
若しかして明治半ばの時代、この日本にNEE師がいたら、この国はもっと変わっていたかも知れない。