■葛藤伝道にも意味がある /ヨナ書2:10~3:10

伝道、響きも聞こえもいいが、現実は難しい。 でも優しいし楽しい、何故か? それはイエスさまが其処におられる時だから。 つくづくそう思う。 救いの道を伝える、これが伝道。 自分の思いでも我が道でもない。 「イエスという道」を伝えるのだ。 「キリストの輩(やから)」になって38年。 生まれて33年、正確には32年と半年までは、単なる世のやからだった。 それがこともあろうに、キリストの「やから」になってしまった。 行ったり来たりの6年間もあった。 その後イエスに捉えられ、今はイエスを見た、触れた思いがする。 主との相思相愛! すべてはイエスに感謝あるのみ! 今日まで、よくぞ見捨てずにいて下さった! 誰も言わないから、せめて私が言おう。 伝道の行く先は幾らでもある。 でも一度として行きたい思いにかられて行ったものではなかった。 葛藤と渋々の連続であったが・・・なのに何と多くの祝福と恵みをいただいただろう。 伝道はしたいからするのではない。 主イエスに「しなさい」と言われてするものだ。 そうで無いとしたら、自分がしたいからする、したくない時はしないになってしまう。 それは単に我儘と自分中心でしかない。 気分でするものではないということ。 仮に自分が嫌でも、イエスに行きなさい、と言われたら行こう。 そして主はいつだって「行きなさい」といわれているのだ。 預言者ヨナ、大魚に飲み込まれ、その腹の中に三日間生き続けた。 暗かったろう、臭かっただろう。 死んだほうがましと思ったであろう。 其処は黄泉の国より酷かった筈だ。 そして

■愛国心/ ヨナ書1:14~2:10

ヨナ、イスラエルの国粋主義的な預言者。 神よりも自国の安全と未来を優先した預言者。 だからと言って、神は彼を諦めたわけではない。 どこまでも、どこまでもヨナを宣教の器として追いかけた。 創造主からこれほど追いかけられて頼りにされるとは、なんという果報者であろうか。 小国イスラエルは常に列強大国の影に怯え続けた。 アッシリヤ帝国の首都ともいえるニネベという町。 この町の罪が神の前に立ち昇ったが、主はニネベを滅ぼすことを惜しまれた。 そこには12万人以上の民が暮らしていたからである。 ニネベの壊滅を願うヨナは主と主の計画から逃げた。 ヨナは自国の未来に大きな不安を感じていた。 王も政府も国民もヤハウェから離れ、北の帝国の脅威は現実となりつつあった。 ニネベを思いやる主の計画は到底受け入れられなかった。 「ニネベに行って悔い改めを促せ。そうでないとニネベを滅ぼす。彼らの悪は赦されない。」 主の言葉にヨナは確信した。 死んでもニネベには行かない。 だから逃げた。 だが、神はどこまでもヨナを追い続けた。 逃げた筈だったが逃げ切れなかった。 挙句の果ては海に投げ込まれ、大魚の腹で死を覚悟した。 だが、それさえも主の御手の中だった。 逃げれば逃げる程、神の面前に向かってしまう。 私自身もそうだった。 嬉しい様な悲しい様な、相反する思いが交錯し現実面では何ともほろ苦かったし、苦しかった。 当時、まるで自分はヨナの様だと思った。 だからヨナが大好きだ。 時はリオ・オリンピック真最中。 目覚ましい日本選手団の活躍で、センターポールの日の

■ 逃げないで / ヨナ書1:1~14

ヨナという人は凡そBC780年ごろイスラエルで活動した預言者である。 神は「敢えて彼を選ばれ」、北の帝国アッシリヤに行ってニネベの街に悔い改めるように伝えよ、と促された。 「ニネベの悪がわたしの前に立ち上ったから」と神は仰せられた。 するとヨナは早速立って、ニネベとは全く反対側のタルシシュ(スペインの街)へと船で向かった。 昔、ヨナ書を子供たちに向かって何回か説明したことがある。 ユニークな画を使いながら、この不思議な話をすると子供たちは喜んで聞いた。 それは非常に大きな魚がヨナを飲み込んで連れ戻したストーリーが現実離れしていたからである。 話し手は極力、真実性をもって話すのだが、こちらも何となくお伽話っぽくなってしまう。 大きな魚に飲み込まれた預言者が三日三晩、魚の腹の中に死なずにいた。 第一、イエスでさえヨナの体験を自らの運命に重ね合わせて話しておられた(マタイ12:40)のは興味深い。 それでもヨナと言う人物の性質と行動は妙に真実味をかもしており、我が身に訴えるのは私だけだろうか。 ある意味、それはすべての人間が共有する性(さが)であると思う。 つまり基本的に、人は神と神の言葉から逃げたいと感じる性質を持っているからだ。 クリスチャンになって38年、牧師になって22年も経過した私でさえも・・だ。 北の帝国アッシリヤは小国イスラエルにとって脅威の対象だった。 このままにしておけば、やがてニネベの街どころか、更には国までも神が滅ぼされるだろう。 まさに「思う壺」とはこのことである。 兎に角、ヨナは神の御顔を避けて、はるかに遠い地中海の西

■ 弟子道 其の弐 / ヨハネ6:58~69

中世ヨーロッパには騎士道があった。 その精神的支柱は聖書であった。 鎌倉時代から江戸時代に掛けては武士道があった。 こちらの精神的支柱は儒教であった。 ならば新約聖書における弟子道はどうだろう? こちらは騎士でもなければ武士でもない。 生涯、弟子であって師ではない。 キリストの僕であって、主人ではない。 だから、キリストの弟子に徹底して生きることである。 支柱はキリスト・イエスである。 他に目指すものなどない。 目指すはキリストの弟子を養い育てることのみ。 キリストの弟子を養育するために必要なものは? キリストという方を知ること、のみである。 栄光も栄誉も無い。 だからこそ、弟子に成り手がいないのか? かも知れない。 弟子の前には常にイエスがおられる、それがすべてである。 キリスト者としては目標が実にシンプルで明快だ。 自分云々を考えないのだから、ある意味非常に気楽である。 イエスさまだけを見ていればよい。 他人の目と口を気にする必要など全くない。 つまり神だけを見て生きる、である。 マタイ28書の最後にイエスの「大宣教命令」と教会が位置づけた、言葉がある。 「あなた方は出て行って、すべての国の人々を弟子(キリストの)としなさい。バプテスマを授け、わたし(イエス)が命じておいたすべてのことを守り行うように、彼らに教えなさい。」 これは大宣教命令と言うよりも「キリストの弟子養育命令」だと思う。 クリスチャンという呼び名は「あいつらはイエスにそっくり、からきしイエスに染まった様な連中だ。生き方考え方、あいつ等はキリストの

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