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■他の人の良心のために/1コリント10:23~33

「私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、他の人の良心です。」

パウロという人は非常に真っすぐで強い男性と思っていたが、クリスチャンになって全く変えられた人となった。

自分のすべきことは、何が起ころうと、やり通す的な人の様に思っていたら実に繊細で柔軟な生き方を見せる。

なぜそれほどに強い側面を維持しつつ、まったく逆のナイーブな面を見せられるのだろう。

それは彼がイエス・キリストを最も間近に覚え続けたからである。

パウロはひたすら伝道を推し進めただけではない。

まだ救われていない人、救われたばかりの人、こういったクリスチャン若しくはノンクリスチャンの魂さえ、彼にしてみれば愛して止まない魂なのである。

その人たちの為にもキリストは十字架に掛かられた、これがパウロの心だった。

『他の人の良心のために』パウロは最大限以上の思いやりを配置できる人だった。

イエスという方を、罪深い人類の救いの為に惜しげもなく与えられた主とは、どれ程慈愛に富み給うた方であるかを知ったのは、パウロ自身が自分という存在を知り尽くしたからこそであった。

引き換えて、私たちはどれほどに自分を知っているだろう。

昔、読んだ言葉を思い出す。

主の愛の深さを知った求道者が神に問うた言葉、「主よ、私が自分を客観的に眺めるとき、どうしても罪しか見えないのです。私という存在そのものが罪なのですか・・・」

果たして、人は其処までも己を見抜くことが出来るのだろうか。

出来る、と思う。

もし人が主の御霊の力によって自分の内側を直視したとすれば、である。

実際、私たちは自分の良心さえ裏切ることを、いとも簡単にしてしまう生き物だと思う。

仮にそうでなければ、もっともっとイエスに対し忠実に生きられると思うからである。

すべてのひとは良心をもっている。

conscience(カンシェンス)=道徳的に正邪、善悪を判断する意識。

そう、すべての人は良心を持っている、生まれついて・・。

どんな悪人であっても持っている、と子供の頃読んだ漫画本の幾つもがそう語っていた。

「へぇ、そうなんだ・・」と、何となく知ったような印象だったが、それはいつも私の心の片隅にあった。

そうか、心の片隅にあるのが良心か・・なんて。

だが、イエスを知らない魂は様々な人生の場面で、ついつい良心を無視できるのだ。

不思議な程に。

過去の自分を思い出しても、そう認めざるを得ない。

だが、聖書は言う、「誰でも自分の利益を求めないで、他の人の利益を心がけなさい。」

ここでいう利益とは金銭だけのことではない。

他者をいたわる物事、心情すべてにおいてである。

イエスに出会って、イエスを知って、キリストの下で生きることを始めた人なら、理解できる第一コリント10章である。

私が今までよりも、もっと身近にイエスを考えたとき、想像したフォー・ステップがある。

1,

自分のあらゆる罪に気づくこと。

単なる罪にとどまらない罪とは、隠しておきたい罪、通常意識したくない罪、思い出してみて理解する罪、思い出したくない罪、人間とはありとあらゆる罪が自分の心身に、乾いてこびりついているものだと、考えた。

これに気づくときに、十字架の意味も大きさもリアルさも変わる。

2、

(そういう罪に気づくとき)自分とはどう仕様もない者だと気づくこと。

余りに安易に、「はい、私は罪びとです。」と言える自分に慣れきったことは実に怖いものだと思った。

その為か、いつの間にあちこちに免疫が生まれてしまった様である。

3,

イエスだけが、絶体絶命の窮地から救い出して下さることに気づくこと。

十字架の贖いと、神に戻る道こそがイエスだと知るべし、である。

イエスだけが「その道」であって、自分の努力でも善行でも奉仕でもないことを覚えよう。

クリスチャンだと自負するのは実に容易いが、イエスによってのみ、と考える人は果たしてどれくらいだろう。

これこそ、頭の隅で貯め置いた潜在意識だけでは済まないのである。

毎日、自覚して意識すべきものである。

4,

最後は読みたくない文章かと思う。それは、常に主イエスに帰属せよ、である。

クリスチャンになって当たり前の様に年月を重ねるとき、思わず振り返るべき言葉がこれだ。

あなたは、イエスに帰属した日々を送っていますか、と聞かれ「ハァ?」と漏れてしまうかも知れない。

「クリスチャンなら当然ですよ」と、あっけらかんと言われるだろうか。

イエスに帰属とは、「イエスに属してイエスに従う」という意味である。

これは私が自身を客観的に見て、いつも感じてしまう言葉である。

当たり前の様に生きていて出来る意識や生き様ではない。

では、誰に帰属しているかというと、何と「自分と自我」だったりして、とてもじゃないが笑えない現実がある。

パウロは優しかった。

昔、ローマびとへの手紙を読んでいた頃のパウロは厳しい人だけに思えた。

だが、41年経った今の私には、パウロは本当にキリストによって変えられた慈愛の人と思う。

「他の人の良心の為に・・・」どこの誰がこんな言葉を吐けるだろう。

『ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、躓きを与えないようにしなさい』

(第一コリント10:33)

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