■もし、お出来になるなら/マルコ福音書

年端も行かない息子が奇病にかかって水の中、火の中を転げ回るなどする行動に困り果てた父親が、イエス不在の時に弟子達の所に行って子供の癒しを願い出た。 しかし、弟子達にとって手をこまねくだけだった。 しばらくしてイエスが帰ってこられ、状況を察知されて言われた。 「ああ、不信仰な世だ。いつまであなた方と一緒にいなければならないのだろう。いつまであなた方に我慢しなければならないのだろう。」 そしてイエスは父親に尋ねられた、「この子がこうなったのはいつ頃からですか。」 父は言った、「幼い時からです。この霊は息子を滅ぼそうとするのです。ただ、もし、お出来になるものなら、私達を憐れんでお助け下さい。」 果たして私たちは普段から、どれほどにイエス・キリストに信頼しているだろうか? いかに彼を信用し、期待しているのだろうか? 父親の信仰を推し量ることと以上に、自分の信仰を推し量る時であろう。 この聖書箇所は常に私達の信仰に関して問われている。 父親の言葉から察すると、彼はイエスに対して殆ど信用していなかったとさえ思える。 「ただ、もし、お出来になるなら・・」 この言葉は一見、謙遜に思えるが、イエスに対する逼迫した期待感がない。 息子の状況は切羽詰ったものだった。 彼の命に関わる重大なものだった。 それでも、父親の言葉から必死さが伝わってこない。 ほぼ半ば諦めていたかのようである。 若しくはイエスへの圧倒的な信頼が無いように思える。 別の聖書箇所にカナン人女性の娘へのとりなし場面がある。 あのとき、母親はイエスからこれでもかと思うくらい、コテンパンに卑下され、度外視された。 凡そ現代ならパワハラ、

■土塊(つちくれ)のわたし/エペソ3:7~13

幼い時よく泥遊びをし団子作りをした。 土を水でこねて丸めた土だんご。 姿かたちのよく似ているのが「さつま団子」という当時は三時のおやつ。 薩摩芋を薄くスライスし、天日でカラカラに乾かし砕いて粉にする。 それを水でこねて、手で適当な形にし、釜で蒸かすと、非常に地味な甘さだけど美味しい団子になった。 菓子もケーキも勝てない、素朴な団子に砂糖など一切加えてなかった。 戦前戦後、肉体を使う人々の腹の足しには充分だった。 子供心に土団子は薩摩団子に思えて見えて仕方なかった。 色も形も同じに見えた。 だが、土団子は煮ても焼いても、蒸かしても食えない。 丁度、私達の様だ。(怒らないで下さい。) だが、聖書の神はそんなものでさえ、食べること以上の価値あることに用いてくださった。 つまり、尊い方に仕える土の器にして下さった。 つちくれ(土塊)に過ぎない、ひと固まりさえ神は用いられる。 思えば、創造主は土地のちりでひとの形を造られ、いのちの息をひとの鼻から吹き込まれた。 そこでひとは生きたものとなった。(創世記2章) 人間は土塊である。 土塊に過ぎない。 しかし、いのちの息を吹き込んで下さった方は生ける神である。 だから、人は生きたのである。 この構図はこれまでも、そしてこれからも変わらない。 人は聖書の神、キリストに出会って、彼を受け入れなければ、いのちの息は吹き込まれない。 人は神に帰り(帰属し)、神の下で礼拝し、神の恵みを受けて営みを生きることが一番合っている。 エペソ人への手紙、パウロのことばがある。 「私は、神の働きにより、自分に与えられた神の恵みによって、この福音に仕える者とされました

■我に躓かぬ者、幸いなり/マタイ11:2~13

バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)は神の導きの下、非常に年老いた両親から生まれた預言者である。 生まれる前から、彼の人生は預言者と決まっていた。 決めたのは創造主である神。 ヨハネの役目、それはキリストを信じて生きる民を前もって清め整えることだった。 そのためには先ず、荒れた世(悔い改めの必要な世)に向かって叫ぶことだった。 ヨハネという人は旧約時代終わりの象徴であり、同時に新約時代始まりの象徴である。 それは律法時代の終わりであり、恵みの時代の始まりだった。 つまり彼は最後の預言者であり、新約時代の表紙に指を掛けた人でもあった。 イエスの御降誕を語るとき、ヨハネを抜かして語ることは出来なかった。 だから、クリスマスが巡ってくる毎年末のキャンドルサーヴィス、イエスよりも必ず先にヨハネが語られる。 ヨハネはこの様に遠い昔、メシヤの来られる時に前もって必ず到来する『声』だった。 彼は世に向かって「罪を悔い改め、神に帰るように。」と叫んだ。 救い主は今、来ている! 彼の声に呼応して人々はヨルダン川へと列を作った。 大勢のユダヤ人が自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたと聖書は言う。 そして遂に30歳のイエスが公衆の前に姿を現されたとき、イエスはヨハネから洗礼を受けられた。 時の王、ヘロデ・アンテパスは自分の罪を指摘したヨハネを怒って獄にぶち込んでいた。 しかし、殺すことには躊躇した。 国民の支持は限りなくバプテスマのヨハネにあったからだ。 丁度、そのころヨハネはイエスに対し、弟子を使いに出し問い合わせている。 「おいでになる筈の方(メシヤ)はあなたですか?それとも私達は

■向こう岸へ渡ろう/マルコ4:35~41

或る日の夕方、イエスが弟子達を促された「さあ、向こう岸へ渡ろう!」 ガリラヤ湖のほとり、大勢の群衆を前にしてイエスは神の国を語っておられた。 舟のへりに腰掛けて話されていたが、イエスは急に何かを思い出されたようにいわれた。 弟子達は直ぐに何艘かの小舟に分乗し、イエスを乗せ漕ぎ出した。 湖の深みに漕ぎ出した頃、ガリラヤ湖が騒ぎ始めた。 海面よりも200メートル低い湖は思いがけないことが突然起こる。 熱くなった地中海の空気が入り込んだ湖上の空気と湖面の温度は相当な開きがある。 嵐が来たかのように突風が湖面に吹き渡り、波は逆立ち、小さい舟など木の葉の如くひっくり返されるだろう。 弟子達の顔は青ざめた。 バランスを崩して誰かが水に落ちそうになった。 5人くらいは乗っていたのだろうか。 弟子達は既に生きた心地がなかった。 ふと見ると、イエスは舟のともの方で寝ておられた。 弟子の誰かが叫んだ。 「先生、私達が溺れ死んでも何とも思わんのですか!」 あまりの恐怖で弟子達の顔はイエスに対して気色ばんだ。 これまでは、そのような顔をイエスに対して向けたことなどなかった。 すると、イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ!」「沈まれ!」といわれた。 すると風はやみ、大なぎになった。 イエスは弟子達に言われた。 「どうして、そんなに怖がるのです?信仰がないのはどうしたことです?」 彼等は大きな恐怖に包まれ、互いに言った。 「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方だろう?」 クリスチャンになったということは、イエスの乗っておられる舟に、私達が乗ったという事だと思う。 これが一つ目

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