■神によって教えられる時代/ヨハネ6/41~45
私達日本人は大方に於いて、何ごともハッキリ決めつけるのは苦手なのかと思う。
つまり余裕というか、ぶれる分を多少残して置くことが好きな国民性、と感じる。
言いたいことは、多少曖昧、いい加減でもいいじゃん?・・かな。
こと外来宗教でもあるキリスト教は、相当はっきり確信を迫り来る。
仏教とて外来である。
取り敢えず当時のメイド・イン・ジャパンは神道だったか?
その神道は基本的な理念とか教理は持たない。
摩訶不思議な「神話」を彼らの創世記とした。
神道は或る意味、悠然と構えているようで、すばやいのか、来るもの拒まずなのか、警戒しつつ取り込んで行くしたたかさを兼ね備え持つという分かりにくい道でもある。
だから、いっそのこと分かりにくいのが神道、と思えばよい。
彼等の中心は何と言ってもセレモニーである。
仏教は取り敢えず渡来したが、いつの間にか神道に包含され、特徴ある日本仏教に生まれ変わった。
キリスト教が禁教となった時代、マリヤ像はローカルなお寺さんなどに匿われていた。
また九州の島々では、仏教的祭壇の中に潜んで礼拝されていた。
それはやはり神道的日本仏教ならではの裏ワザだったのかもしれない。
一般的に使う英語のmaybe(ひょっとしたら・ことによると)とか、probably(多分・おそらく)とかを好み、definitely(明確・はっきり)は無意識のうちに敬遠していることがある。
それは相手を重んじて一歩退くというか、謙遜なのか分からないが・・・私とて同様である、
だが、こと聖書信仰になると、そうは行かない。
特にYAWEに育てられたイスラエル民族とYAWEの精神で書かれた聖書は曖昧さを残すことが嫌われた。
だから、厳しい。
厳しさの中に思いやりもある。
但し、明確を求められているのに、「曖昧をキープ」し続けようとする時、クリスチャン信仰が消えゆく場面もあるから御用心。
私自身、日本人らしくどこか曖昧、肝心なところを何となくいい加減で育ったが、クリスチャンとして生きたければ、そうは行かないと思い知らされた。
Youは信じている?
何をどう信じている?
では信じていない?
立て続けに何問か問われると、直ぐにボロが出る。
聖書の前では常に二者択一である。
世の中、どれほど考えが多様化したにせよ、聖書は変わらないし、変えられないことはずっと変えられないのだ。
性の問題、男尊女卑問題、過去を恨み返しつつ現在と未来を変えたくとも、仮に天と地がひっくり返ったにせよ、聖書は変えられない。
ならば、聖書の捉え方と解釈、考え方を変えたらどうだろうか、だが動かせないのだ。
人間の頭脳でなく、聖霊が人に働き書かせた聖書の思考と思想の何をどうひっくり返しても転がしても変えられないのだ。
別の視点でもって、新しい分野と方向性を駆使しても無理は無理でしかない。
無理を通せば角が立つ。
結局は異端になるしかない、のである。
もしくは今までとは全く違うキリスト教を造るとか・・・当然であるが神道系の得意技を使って、である。
考える自由と言論の自由によって、主張も意見も多様化しつつある。
この自由は確かに尊いものがある。
だが、真理が新しく増えたわけではない。
そして他の意見に憤慨しても変えることは難しい。
そして嘆く。
そこで何をするのか。
クリスチャンであるなら、自分がしっかりと主の前に立つこと。
先ず、他者を変えようと額に汗しないで、自分がキリスト者に変えられることを祈ろう。
ひとを変えるのはイエスさまのお仕事だ。
自分ひとりさえ変えられないで、他者を変えることなど出来ない。
先ず、自分がイエスによって、主が求めておられるひとになれることを求めよう。
ヨハネ6章37のa
『父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところへ来ます。』とある。
そう、父なる神によって、私達はイエスのところに行った。
クリスチャンとは「キリストのもの」と言う意味である。
自分はキリストのものと知った瞬間、キリストの十字架を知ったのである。
父なる神を信じたけれど、十字架が理解出来ない人だって少なくない。
それはキリストのところへ行ってないからだ。
救われた者はすべて、行くべき先はキリストのところである。
当然のことを「ヨハネ福音書」は言っている。
YesかNoである。
多分でも、ひょっとしてでもない。
行った?
行かなかった?
主は続けていわれた、『わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てない。』
どれほどのクリスチャンが洗礼を受けて、どれほどの人が信仰から離れただろう。
イエスは何と言われたか!
「わたしは決して捨てない!」と書いてある。
信仰から離れた要因は数々あろうけども、イエスが捨てられたのではない。
神のせいにしないことだ。
イエスのところに行かなかったのか、誰にも教えて貰わなかったからなのか。
でもチャンスは今もある。
もう一度、イエスのところへ行って欲しい。
そして知って欲しい、彼は決してあなたを見捨てないことを。
天の父とイエスは一体である。
そして二者はおひとりである。
神は個体ではない、御霊である。
ヨハネ福音書は何とかして人間がイエスを理解出来る道を探った。
だから、イエスはいわれた、「わたしが天から下って来たのは、自分の心を行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためである。」ヨハネ6章38節
アーメン!