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新約聖書/ルカの福音書
- 2018年3月29日
■2018・最後の晩餐/ルカ22:14~24
年に一度のイースター(復活祭)。 クリスチャン、特に教会生活を送っている信徒にとって、これほど大きな力を与えられる時は無い。 でも、その三日前の木曜日夜の「最後の晩餐」は実に意義あるものだ。 イエスが遂に十字架の道へと歩を進めた第一段階であり、既に覚悟を決められた次元である。 イエスはご自身で、十字架に架かることを由とされていた。 誰のために? あなたのため、私のためである。 今、あなたが仮にクリスチャンでないとしても、イエスはあなたのために死んで下さった。 生涯、イエスを知らずに亡くなった人たちのためにもイエスは死なれた。 クリスチャン生活がスカスカの信徒のためにも彼は死なれた。 教会生活が遠い昔だけだった、という人のためにもイエスは死なれた。 イエスが大嫌いの人のためにも、イエスは死なれた。 イエスは「そういう死」を選ばれた。 そして十字架の上で断末魔の叫声を発せられた。 「完了した!」 そう、彼は完了されたのである。 しかし、完了されていなかったと、私はしばらくの間思っていた。 第一、イエスの教会は? 十字架刑のとき、弟子達のほとんどは逃げ
新約聖書/コリント人への手紙
- 2018年3月18日
■本当に必要な方はイエスだけ/Ⅰコリント10:1~17
『昔、イスラエルは雲と海とで、モーセにつくバプテスマ(洗礼)を受け、みな同じ御霊の飲み物、みな同じ御霊の飲み物を飲んだ。その御霊はキリストであった。』 パウロが、この様に説明したのが第一コリント10章である。 だが、イスラエルは御霊の神ではなく、目に見える神々(偶像)を作り、食べては飲んで踊った。 人間とは、いとも簡単に自分の神々を作る生き物である。 そして人が魂と「肉だけの人生」で終わるのは悲しすぎる。 人間は宗教を求め、信仰を求めるという霊性つまり「隠れた本能」が有ると思う。 ゆえに心の拠り所を模索し、神の存在を空想するのであろう。 ただ食べて飲んで、快適な生活をして、身体を喜ばせるだけの人生では物足りない、やるせない、と考える。 それにしても雲と海という壮大なバプテスマを通りながら、人は偶像を作れるのだろうか。 そう、彼らは作ったのである。 では、クリスチャンなら偶像は作らないのか? 勿論、「金の子牛」は作らないだろう。 だが、御霊の神の如くに信頼してしまうものが、心惹かれるものが、支配されてしまうとしたら、それらはすべて偶像である。 偶像
新約聖書/マタイの福音書
- 2018年3月11日
■対象外/マタイ15:21~28
或る日、イエスは地中海沿いを上ってツロとシドン(現在のレバノン)という海岸沿いの道を歩いておられた。 するとカナン人の女性がイエスを目ざとく見つけ、大声でイエスに叫んだものだ。 「主よ~、ダビデの子よ~、私を憐れんでください。娘がひどい悪霊に取りつかれているのです。」 イエスと弟子達、男ばかりの集団に向かって泣き叫んでついて来る女性、かなりの異様な景色ではあったが、女は諦めそうもなかった。 『先生~、あの女を帰してやってください。叫びながら後について来るのです。』見かねた弟子のひとりがイエスに申し出た。 するとイエスはその弟子に向かって言われた。 『わたしはイスラエルの家の滅びた羊以外のところに遣わされていません。』 彼女はイエスに無視されたのである。 イエスと弟子が顔を見合わせて何か話してはいるが、彼女がどこまで理解したかは分からない。 どうも自分のことらしいが、イエスは彼女の方を一向に見ようとさえ、されなかった。 だが、女はあきらめなかった。 やにわにイエスの前に走り出ると、がばと地に身を伏して四つん這いになってイエスを見上げて訴えた。 「主
新約聖書/マルコ福音書
- 2018年3月4日
■神の国は今どこに」マルコ4:26~33
「神の国は・・・」で始まるこの箇所、マルコ4章26節が好きである。 イエスはいろいろ言ってくださるが、いまいち掴みどころがない表現が神の国である。 でも、だからこそ好きである。 14年前、ある読者投稿記事が新聞に載った。 自殺志願の若い女性の体験記事だった。 彼女は一緒に死んでくれる相手と話が決まり、先方の支持した場所へタクシーを走らせた。 だが、運転手が地理に不慣れな為か、仕事についてからの浅い経験の為か、スムーズに走れない。 運転手はというと、実直で幾度も幾度も彼女に謝った。 信号で地図を確信し、ガソリンスタンドでは道を聞き、徒歩の人には道を尋ねた。 「すみません、地理に不慣れな者で・・」と謝るも、彼女にはどうでもよかった。 彼女の頭は死に行くことしかなかったから。 だが、真面目一方な運転手の言葉は、彼女にとって温かく感じられた。 ぶっきらぼうな運転手が多い中、「感じのいい人だな・・」とも思った。 どこまでも前向きな運転手と、後ろ向きの自分のギャップが堪らなかった。 ようやく車は目的地に着いた。「すみません、お客さん。とてもメーター通りのお金