■十字架のことばは神の力/Ⅰコリント1章17~21節
山の峰、若しくは水の水源地点となるべき場所に「分水嶺」(ぶんすいれい)という石碑が立てられている。
同じ場所、同じ時刻に降った雨にせよ、場所によって左右二つに分かれ、沢となり、川の源流支流となる。
大きく分ければ一方は日本海、別の雨水は太平洋へと流れくだる。
だが、いずれにせよ、雲から水滴となって落ちた水である。
第一コリント1:18節
『十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。』
十字架の言葉、メッセイジを聞く側如何で、不思議な分水嶺が存在する。
1978年3月5日、その朝も私は教会の礼拝の中にいた。
既に2カ月間、妻と子供たちと一緒に礼拝の席に座っていた。
教会備え付きの聖書で牧師の話も聞いていた。
だが、それは聞きたくない音を聞き流すだけの耳だった。
理解しようとも思わない石のような心であった。
初めから聞くも耳も、知るべき目も、用意していなかった。
する必要など無かったからだ。
幾ら、いのちのことばであろうと、石の上を流れ落ちてゆくだけの水の様なものだった。
先週と同じに時間は過ぎて行き、昼食を皆で食べてから家路につく。
二週間後の朝、私は同じように礼拝の席にいた。
しかし、その朝は以前の私ではなかった。
聖書を読む心、牧師の話を聞く耳、まったく以前の自分ではなくなっていた。
何が変わったのか?
私が変わったのではない。
私の中にイエスが住んでくださったことが、すべてのすべてであった。
説教する牧師の顔とことばを見て聞いていた。
変わったのはイエスが私の中におられる、それだけだった。
一週間前の礼拝時間で勝手に聖書を一人読み漁る自分であったことだけは確かだった。
その夜、私はイエスを自分の中にお受けした。
その時から生ける神は私の心を捉えて離さなかった。
それからは聖書のことばは雨水のように落ちて、低い方へと流れる水の如く、だが私の心の中に集められた。
以前は触れずに流れ消えゆく水だったのに、濡らしてもすぐに乾く水だったのに、今は溜まり行くいのちのことばのような水だった。
滅びゆく魂だけでしかなかった私でも、主によって生かされる者となった。
ただし、そこから随分多くの時間と葛藤も必要だった。
それでも、イエスを離したくない、離れたくない思いは常にあった。
主の十字架は文字通り力である。
罪びとの罪を赦す、そして人は生まれて初めて自由と開放を味わう。
人はそこで本当の人間性を神の前で味わう。
自分に捕らわれない自由を知る。
罪からの開放は新しい人生の始まりだ。
自由の公式・・罪+赦し+贖い÷アガペー(神の愛と力)=人はキリストを知る。
そして新しい自分に出会う。
新しくなれる自分を知る。
それはすべて神の力、キリストの死と復活の力である。
自分の力ではない。
それ以外の何ものも必要ない。
十字架はすべての人に勝利を知らせる自由の鐘である。
十字架は実に楔(くさび)であった。
サタンに二度と有無を言わせない楔である。
楔という文字は「木」と「契」の二文字から出来ている。
(時として漢字の作られた経緯を知りたくなるものだ。)
楔を打ち込んだイエスの勝利であり、イエスを信じた聖徒の勝利だ。
十字架の楔は、神と人の契約、つまりイエスによる贖いの死が私たちに救いをもたらした。
私たちがイエスを信じたからである。
もう私たちを訴える存在も告訴状も無い。
キリストの十字架により完全開放をされたからだ。
十字架は敗戦のシンボルではない。
十字架は悪魔とサタンへの眉間に打ち込まれた勝利のシンボルである。
いかなる罪も、いかなる背きも、十字架には勝てない。
だから、十字架を信ぜよ。
ただ十字架を信ぜよ。
イエスはいつまでも十字架にとどまっていない。
だから、十字架に掛けられているイエス像など必要ない。
聖書を見よ。彼は息を引き取って直ぐに墓に葬られたではないか。
彼は墓にも長くは留まっていなかった。
三日目の朝、彼は墓にはいなかった。
週の初めの日、夜が明ける前、彼はよみがえった。
木だけの十字架と空っぽの墓こそ、イエスが勝利した証拠。
彼を信じる人が救われる証拠。
それを思い出すたび、あなたはイエスの勝利を知り、自己の勝利を知る!
『十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。』