■その中心は神である/ヘブル3:13~4:2

『ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです』ヘブル4:2 およそクリスチャンになってから、最も難しいと感じたことは、聞いた聖書のことばを実践出来なかったことである。 出来ないではなく、実践しようとしないからだと思う。 何もかもせよ、と神は言われない。 今、為すべきことをしなさい、である。 一つである。 結局、「一体自分は何を聞いていたのか」とうな垂れてしまう。 無力感に苛まれる。 では、立ち位置を変えてみよう。 もし主がさせて下さるなら、出来ないことはない、と思うか。 もし、主が働いて下さって、力を下さるなら出来るかも知れない。 もし、イエスが私を動かして勇気を支えて下さるならきっと出来る! 聖書は耳の無い者に語っているのではない。 出来ない者に命令しているわけでもない。 腑抜けを何とかしようとしているわけでもない。 普通の人間達に向かって、励ましておられるのだ。 アブラハムは普通の人だった。 保身的でひとりよがりの男だった。 己の命のために妻さえエジプトの宮廷に差し出す人だった。 そんな性質でもあったアブラハムだったが、神が彼を「祝福の父」にしようと選ばれた。 主は彼を守り、盾となり、彼の道標となって仕事をされた。 一番際立った点は神が彼を選ばれたことである。 アブラハムの孫、ヤコブは利口な男だった。 騙しにかけては知恵者であった。 そういう性格が災いして、家族は崩壊し、跡取りの筈の彼が家を出る羽目となった。 その時点で彼の人生は右肩下がりになる筈だった。 ひとり石を枕に荒野の夜

■盗まれたイエス/マタイ28:1~20

イエスが殺され墓に葬られて三日目の朝、婦人たちは遺体に香油を塗るため暗いうちに家を出た。 墓についたころ日が昇り始めた。 見ると墓の蓋石は横に転がしてあり、中にイエスの遺体はなく、空っぽだった。 だが、その事前に番兵たちはそのことを知り、祭司長に申し出ていた。 「イエスの遺体が見当たらないのです!」それを聞いた祭司長は長老たちを呼び寄せ、多額の金を渡して言った。 「よいか、このことが総督の耳に入っても、こう伝えるのだ。『我々が眠っている間に、弟子達が来てイエスの体を盗んで行きました。』 そしてこの話がユダヤ人に広まったと、マタイ福音書は語る。 だが、彼らの虚言よりも、はるかに嘘っぽく思えるのは、「イエスがよみがえった」という噂だろうと思う。 遺体であるが故、イエスが盗まれたという話が出来上がる。 仮に生きておられるイエスだとしたら、「盗まれる」ことなど有り得ない。 だが、多くのクリスチャン達の心から、生けるイエスが盗まれていないだろうか? 神を信じるクリスチャンたちの中で、イエスが盗まれている? そんな馬鹿な話が、馬鹿な話で終わらない現実が悲しい。 イエスを信じたので救われた。 であるのに、知らぬ間にイエスを盗まれてしまい、それも知らないままに教会生活をしていることだってある。 盗まれるなんて有り得ないのだが、自分の中でイエスを意識しないで教会生活をしていると、結果的にそうなるという例え話である。 神を信じていても、キリストの臨在など意に介さないということか。 それでクリスチャンですか?と問いたい。 思えば、私の人生は全くその通りの時があった。 つまり、イエスを意識せずともクリ

■主はよみがえられた/ヨハネ20:1~16

キリスト教の中で、奇跡の中の奇跡といえば、完全に死んだ筈のイエスが三日目によみがえられたことである。 では、そのことを信じたからクリスチャンとなったのか、と言えばあながちそうではない。 おそらく、多くのクリスチャンが同じことを言うと思う。 また処女マリヤから赤ん坊が生まれることを信じたので、クリスチャンになったという人も殆どいないと思う。 牧師をしている中での実感である。 それは、奇跡が信じられないでクリスチャンになることに二の足を踏んでいる一般の人が案外多いと考えたからである。 聖書の神を受け入れたので、クリスチャンになった私は、一番容易い経路だったのだと思う。 何故なら信じる積りが、ほんのわずかにも無くて、興味も無かった私はたった数時間の悶々に終止符を打ったということは、聖書自体のすべては「研究して理解出来るものではない」という証しである。 毎年、春に訪れるイースターは嬉しい季節の中にあって、最高最大の喜びをもたらす。 それは突然やって来たサプライズかの様に圧倒された思いさえある。 教会のカレンダーには、その日が印刷されているし、予想も出来るし、計画も立てている。 であるのに、大きな喜びと共にイースターにやってくるのだ。 「イエスは死者の中からよみがえられた!」 教祖が、よもやよみがえられた云々の次元ではない。 それこそ自分とイエスの関係であり、なければならない出来事だったからだ。 マグダラのマリヤという女性は、イエスの御身体に香油を塗るため暗いうちに墓に向かった。 すると、墓を塞いでいた大きな蓋石が転がしてあった。 ローマ兵が封印しておいた蓋なのに・・・ 中を覗いてみると

■私を思い出して下さい/ルカ23:24~48

ある日曜の朝、約15年も礼拝から遠ざかっておられた、ある姉妹から電話があった。 今は遠く南の小笠原諸島父島で暮らしているとのことだった。 島に一つだけある教会のメンバーになりたいので、教会籍を送って欲しいとのことだった。 その後、彼女とはメールのやりとりが始まって、事の成り行きを知らせてくれた。 数名の教会員、高小さい者ではあるが、僅かでも主のために仕えたいとのことだった。 私は喜んで週報と彼女の教会籍を送った。 そして、はるか海の彼方の小島にある教会と牧師と姉妹のために祈った。 彼女の魂と霊はずっとイエスと共にあった。 だが主なるキリストは、その教会の本当に小さな礼拝にも毎週臨んでおられると思うと胸が熱くなる。 主に忘れられた教会もクリスチャンも、決して無いことを覚えたい、と思った。 今週は受難週・・・ 一日ずつ、十字架の道を歩まれるイエスを覚えたい。 ルカの福音書23章34節から48節の中に、沢山の真理が語られている。 人間は「自分がしていることが分からない」ものだ。 イエスは苦しい息の中からも、人々のためにとりなしておられる。 「父よ、彼らを赦し給え、彼らは自分で何をしているかわからないのだから。」 一寸先、1秒先が分からないのが人間なのだ。 間違いを犯さないことなど出来ないのが人間である。 2、人間は「救い」という本当の意味が分かっていない。 人生で窮地に陥ったとき、重病で死線をさまよったとき、事業などで大失敗を予想したとき、車を運転していて危うく大事故を免れたとき、思わず口走るのが「救われた!」という言葉ではないだろうか。 だが、人は必ず死ぬ、これを免れる人はひとりも

■私という罪/ローマ書7:15~25

死は人間にとって最も重く厳しく切実なテーマである。 教会では様々な礼拝を執り行うが、葬儀ほど礼拝堂の空気を引き締める時は無い。 それは礼拝の目的が死を第一に取り上げているからだ。 亡き人や信仰の足跡を忍ぶことは最重要課題かと思うが、第一はやはり神ご自身が最重要課題であることが、キリスト教葬儀だと思う。 そこに立つ限り、死者がクリスチャンであろうと、そうでなかろうと葬儀で行う礼拝は最高の尊厳を伴う時となる。 そこには人間の最後がある。 そこには絶望と悲しみが同居している。 そこには人生の凝縮が迫っている。 そこには明日をも知れぬ人間の儚さと哀れさがある。 そこには弱き人間に迫る神の無言の迫りがある。 司式者はこれらを遺族と会衆と奉仕者に伝える義務がある。 死は生きとし生けるものの宿命である。 それは神の被造物すべての宿命である。 それは同時に「生・いのち」を受けたということの証明でもある。 但し、罪びとのまま死ぬか、罪赦されて死ぬかでは天国と地獄ほどの差がある。 キリストに出会ってしばらくの後、パウロが出会ったのは己が内なる罪だった。 そして、彼にとって罪というものは切っても離れられない性質だと分かった。 罪は彼の内側も外側も縛り付ける鉄の鎖の様に思えた。 だが、鉄の鎖なら切れても、内なる罪は如何とも仕様がなかった。 泣いてもわめいても、罪は離れなかった。 必死に善を求め、義に生きようとあがいても、罪は彼につきまとい幾度ふりはらっても、追いつき、とりすがって離れなかった。 意識すればするほど、罪はパウロの内でその存在を知らしめた。 「ああ、私は何と惨めな者でしょう。」と彼は嘆くし

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