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■大いなる不完全/創世記3:21~4:8

ヨシャパテは南王国ユダの王だった。

その人間性は常に神に向かい従うものだった。

国民を思う心も主を念頭に置くものだった。

つまり何をとっても彼以上の王はいなかった。

聖書は言う、「主は王国をヨシャパテの手によって確立された。彼の心は主の道にいよいよ

励み、富と誉が豊かに与えられた。」(第二歴代誌17章)

つまり彼の前にも、彼の後にも、彼以上の王はいなかったのである。

転じて北王国イスラエルのアハブは最悪の王だった。

彼以上に悪い王はいないとさえ思われる。

主の前に悪を犯し、多くの預言者を迫害した。

ある日、アハブはヨシャパテにこう言った。

「あなたと私はとは同じようなもの、私の民はあなたの民と同じようなものです。あなたと共に戦いに望みましょう。」(第二歴代誌18章〉

何ということか、やがてヨシャパテはアハブと和平条約を結んだのである。

ここにヨシャパテのたった一つの、そして大きな弱さがあった。

完全な人間などいない。

つまり、人間は不完全な生き物である。

だから人間なのである。

人は神ではない。

不完全だから人なのである。

  • すべての人は不完全である。

  • 不完全な父母、不完全な夫婦、そして不完全な子供達。だがそれでこそ、人間なのだと思う。

  • 創造主はすべての人間に個性を与えられた。弱い部分、強い部分があり、両親のDNAを継いでいる。そして成長時の環境をプラスされて人は個性を育んだ。

  • そして!すべての人間は創造主にとって傑作だった。

つまり、あなたも私も神の傑作なのだ。

そう思えないかも知れない。

だが、自分でどう思うか、思わないかではない。

何が良くて何が悪いかではない。

あなたは主の眼から見て、傑作だったのである。

確かに未熟で完全ではなかったが、傑作だったのである。

仮に肉体的、精神的の何かにハンディがあったとしても傑作だったのである。

その人としての本質的部分は変わらない。

過去は過去でしかない。

イエスを知った以後が問題だ。

どんな人だって失敗したし、間違ったこともした。

だが、過去は帰らない。

だが、今とこの先なら変えられる。

イエスが一緒なら変えられる。

自分で自分さえも変えられない私達。

だが、神なら出来るのだ。

あなたはそれを信じるだろうか。

もし信じられないと言うなら、あなたは救われていないかも知れない。

だがイエスを信じて救われたのなら話は全く別なのだ。

まず、不完全な自分を認めよう。

不完全な自分に納得できなければ、あなたはこの先も変えられないだろう。

もし、自分の不完全を認めるなら、あなたは神のインポッシブルを信じられる筈だ。

天地において主なる神、イエス・キリストだけがIMPOSSIBLEな方なのである。

イエスがあなたと生き、あなたと暮らすなら、あなたはイエスに歩調を合わせられるだろう。

イエスはあなたの内で呼吸し、躍動し、存在感をもってあなたと生きて下さる筈だ。

イエスと生きるからあなたは変化を求める者となる。

誰かが変わればではない、あなた自身が変えられることを望む者となる。

「大いなる不完全」

不完全自体がどうして大いなるものなのか。

実は其処こそ、イエスが慈しまれるところだと思うからだ。

人間は不完全を好みはしない。

人間は不完全を隠したがる。

だが、人が望まない不完全部分を主が満たされる、としたら・・・

人が、自分の「日陰」と思う欠け、弱さ、否定的部分を主が満たされるとしたら・・・

そして、あなたはクリスチャンとして、主をどう思われるだろう。

救い主、メシヤであられるイエスは悩める人々、癒しを必要とする者、悲しみ苦しむ者のところに来られた。

そのために彼は来られた!のである。

イエスは人々の心、身体、立ちどころ、環境、人生、生き方を変えるために来られた。

人間を完全にするために彼が来られたのではない。

人間に必要なことは、完全ではなく、『主のアガペー(無限の愛、無償の愛)と憐みと御力が不可欠』であることを、人間が自覚知するために来られたのだ。

それはイコール、人間にはイエスが必要だと、人間が理解することであって他のなにものでも無い、ということなのである。

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