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■ 逃げないで / ヨナ書1:1~14

ヨナという人は凡そBC780年ごろイスラエルで活動した預言者である。 神は「敢えて彼を選ばれ」、北の帝国アッシリヤに行ってニネベの街に悔い改めるように伝えよ、と促された。 「ニネベの悪がわたしの前に立ち上ったから」と神は仰せられた。 するとヨナは早速立って、ニネベとは全く反対側のタルシシュ(スペインの街)へと船で向かった。 昔、ヨナ書を子供たちに向かって何回か説明したことがある。 ユニークな画を使いながら、この不思議な話をすると子供たちは喜んで聞いた。 それは非常に大きな魚がヨナを飲み込んで連れ戻したストーリーが現実離れしていたからである。 話し手は極力、真実性をもって話すのだが、こちらも何となくお伽話っぽくなってしまう。 大きな魚に飲み込まれた預言者が三日三晩、魚の腹の中に死なずにいた。 第一、イエスでさえヨナの体験を自らの運命に重ね合わせて話しておられた(マタイ12:40)のは興味深い。 それでもヨナと言う人物の性質と行動は妙に真実味をかもしており、我が身に訴えるのは私だけだろうか。 ある意味、それはすべての人間が共有する性(さが)であると思う。 つまり基本的に、人は神と神の言葉から逃げたいと感じる性質を持っているからだ。 クリスチャンになって38年、牧師になって22年も経過した私でさえも・・だ。 北の帝国アッシリヤは小国イスラエルにとって脅威の対象だった。 このままにしておけば、やがてニネベの街どころか、更には国までも神が滅ぼされるだろう。 まさに「思う壺」とはこのことである。 兎に角、ヨナは神の御顔を避けて、はるかに遠い地中海の西の果てへ向った。 「必ず逃げおおせる」とヨナは踏んだのであろう。 だが、船がヨッパを出港して間もなく、神が大風を吹き込んだので、激しい暴風は船を翻弄した、と聖書は語る。 乗組員達は、この災難には必ず原因があると睨んだ。 そこで彼らが犯人捜しをクジ引きに託すとヨナが当たりくじを引いてしまった。 想像した通り、神はヨナを探し当てられた。 彼はタルシシュ行きの計画すべてを白状し、自分を海に投げ込むようにと言った。 そうすれば、神は怒りをおさめて海は静かになるから。 船員たちはそれを聞いて改めて神を恐れたが、言われるままに彼を海に投げ込んだ。 すると風はやみ、海は静まった。 主は大きな魚を備えて、ヨナを飲み込ませた。 私はクリスチャンになって三年後、ふと感じたことがある。 それは牧師として主に仕えるようにとの主の御声だった。 あの時から逃げることだけ考えた。 どうしても敬遠したい職であり立場だった。 だから祈った。 「主よ、他のことなら何でもします。でも牧師だけは嫌です。」 その頃、キリストが私の首根っこを掴まれたと感じていた。 41歳時、真実に真摯にキリストにお断りを入れることが誠意と思って、そう祈った。 だが、返ってきた返事は想像をはるかに超えたものだった。 「あなたは、わたしのことを全知全能の神、と思っているなら言うが、あなた如きのちっぽけな人間ひとり、造りかえられないとでも思うのか?」 あの日は確かに岐路だった。 以来、それでも右にぶれ左にぶれた。思えばぶれっぱなしの人生だった。 だが神は諦めてくれなかった。 そこで選んだ道。 それは「取り敢えず、という道」だった。 「取り敢えず、今はこうします。」 「取り敢えず行きます。でも私は嫌なのです、牧師だけは。」 比べればヨナの方が素晴らしいのである。 生ける神に首根っこを掴まれることは恐ろしいことである。 そして逃げようとすればする程に、追っかけられるのだ。 逃げきれない。 恐ろしいと思う反面、しばらくしたら嬉しさが湧いてくるのが不思議だった。 天と地を造られた主が、「あなたを必要だ」と言ってくださるのだから。 逃げ切れると思うのであれば、逃げるのもよいだろう。 だが、決して逃げられない、生ける神からは・・・ そして今、私は開き直った、イエスさまを捉えたい道に・・・御言葉から、はまった道である。

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