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■ キリストの檄

祈りはどうしても自分中心になり易い。 当然ではあるが、事をなして下さるのは主であるから、主である神を中心にした祈りが大切である。 事をなされる方法も仕方も、主にお任せすべきである。 それが「神中心」の祈りであり、私たちの心である。 そしてそのような祈りは神の可能性に立ったものになる。 人には限界があり、狭くて小さくて偏向的である。 しかし、主の可能性は自由で無限であるから、策も方法も縦横無尽である。 それを人間が持てと言っても無理であるが、祈る願いに関しては注文などつけるべきではない。 要するに端的に結果を求めればよいのではないか、と思う。 「主よ、あなたがこの事に関してどのようになさるか、どこから始められるか分かりません。ですから、すべてあなたの方法にお任せします。あなたに委ねて待ちます。」 この祈りのほうが主を信頼して任せていると思った。 バプテスマのヨハネが獄に捕えられたとき、ヨハネは彼の弟子たちをイエスの元に遣わし、このように言わせた。 「おいでになる筈の方は、あなたですか?それとも私たちは別の方を待つべきでしょうか?」 果たしてヨハネはイエスに対し、疑心暗鬼に陥ったのか? そこでBPのヨハネの思いを想像した。 ヨハネはこの世に正義を示し、力をもって悪を除き、人々を神に立ち返らせる世直しの旗手としてのメシヤをイエスに意識していたのかも知れない。 しかし待てども暮らせども、イエスはヨハネが考えたメシヤらしい行動に移らない。 自分は囚われの身となっているのに、肝心のイエスは何を考えておられるのか・・・・ イエスはヨハネの弟子にこういわれた。 「あなた方は行って自分たちが見たり聞いたりしたことをあるがまま、ヨハネに伝えなさい。目の見えない者が見えるようになり、足の効かない者が歩き、病人が清められ、聞こえなかった耳が開き、死人が生き返り、貧しい者に福音が伝えられているのです。」 そしてこう付け加えられた。 「誰でも、わたしに躓かない者は幸いである。」 最後の言葉が耳に痛く響いた。 そう、多くの人々がイエスに躓いた。 ユダヤ人が躓き、世の人が躓き、そしてクリスチャンも躓いた。 それぞれのつまずく原因は微妙に異なっていた。 だが、間違いなくイエスに躓いたのである。 多くの人がイエスのメシヤ性を見落とした。 彼らはメシヤのイメージを自分で持っていた。 メシヤは決してぶれず、国々に平和と統一をもたらし、弱きを助け、強きをくじく方。 人間なら誰もが勝手に抱いているヒーローのイメージである。 人は自分達の夢を実現するものこそ、彼らの救い主であると考えた。 BPのヨハネにせよ、そう考えても不思議はなかった。 そう考えてみるとメシヤ像は確かにヒーローである。 そして今、比べてみると私達の救い主は何とヒーローから遠く離れたイメージかと思う。 遠い昔から聖書が求め続けた救いとは? それは単に目の前の問題から苦しみから、渇きから、悪から、救い出してくれるヒーローではない。 そうではなく、罪を赦し、罪びとの人生に依らず、神と生きる人生であり、まことの義、まことの道に生きるよう導かれる方こそメシヤであることだった。 確かに今悩む問題だけを解決してくれたにせよ、次から次へと新たに問題は発生するのが人生であり、人間であり、この世である。 根底に横たわる人間の問題は「罪の清めと罪からの脱出」を果たすイエスであって彼以外に結局、彼以外の道、つまり「別の方を待つべきでしょうか?」になってしまう。 だから、イエスに躓いてみれば、人は自ずと自明の理を知るであろう。 自分中心になるとはそういうことである。 「誰でも、わたしに躓かない者は幸いです。」

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