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■ 2005年の礼拝ごころ / 創世記12:4~13:4 (2005-01-09)

「日曜だから教会へ行く。」「小さい時から行ってっているから。」「習慣だから・・・」 あなたは何故、日曜に教会へ行くのですか?と聞かれて、上のような答えをしたら、おかしいですよね。そこには礼拝への思いも、意味も語られていませんし、創造主への感謝もありません。自分があって、日曜が来て、教会があるから、だとしたら、実も蓋もない無味乾燥な礼拝ごころではないでしょうか。日曜は主の日、イエス様がよみがえられた日、私を赦して救ってくださった神を礼拝するときなのです。

アブラムがカナンに入って間もなくの時でした。そこには既に先住民族がいました。アブラムは神の言葉を聞いて、どこに行くのかも分からず、カナンへ入って行ったのです。彼の心は、神への感謝と畏敬の思いでいっぱいでした。彼の人生は神が共に歩んでくださる喜びに、満ち溢れていたのです。見るもの、感じるもの、すべてが新鮮でした。それは、私達も同じです。昨日まで一人、生きてきたのが、イエス様と一緒の人生だと分かった時、本当に世界観も人生観も変わって、感受性も思考も素晴らしく突き抜けていて、生かされている感謝でいっぱいなのです。

アブラムはべテルとアイという町の間に、祭壇を造り、捧げ物をし、感謝の祈りをいしました。この場面、聖書が強調する言葉は「主のため」というものです。アブラムの一生賢明が伝わって来ます。クリスチャンなら、どなたも経験されたことでしょう。アブラムは更に場所を移し、そこでも祭壇を築きました。ここでも聖書は言います。「彼は主のために祭壇を築いた」。

しかし、この地方に飢饉が起こり、アブラムの一行はエジプトまで避難します。そこで待っていたのは、アブラムの信仰をが試されるものでした。モラルも神への思いも、そして信仰も地に捨ててしまったような結末が彼を待っていたのです。それにも関わらず!神は彼を守り、祝福し、彼の財産を増し加えたのです。この場面、私達が忘れてはならない、真理が隠されています。それは、私達がどれほど不適当な生き方をしていても、恵みの神は即座に裁かず、豊かな寛容と慈愛をもって私達を守っておられる、ということです。

アブラムはエジプトを離れ、あの祭壇を築いた場所にやってきました。彼はそこで何を感じたことでしょう。アブラムは、祭壇の前で自分のしたことと、神を再び見上げた時、彼は神を呼び、主の名を叫んだ、と聖書は言います。ここには、あきらかにアブラムの変化を見ます。「主のために」ではなく、彼は今、「自分の罪と愚かしさ、信仰の弱さと神への不信頼」を示され、思わず「己がために」神の名を呼んだのではと、私は思います。

礼拝は感謝をささげるためです。でも、自分の罪や弱さ、欠けだらけの器、神への不信仰を抜きにして、感謝の思いは湧き起こってきません。十字架の前にひざをつく思いで、神をあがめ、キリストをたたえたい2005年です。

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