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■ 信仰は神への応答 / マルコの福音書14:16~26 (2005-03-06)

イエスが選んだ12人の弟子達。彼らはイエスに呼ばれた者達である。過ぎ越しの祭りの食事を共にする夜。それまでも、ぶどう酒とパンを主と共に食事する日々は多かったであろう。しかし、その夜だけは違った。イエスが言われた言葉は、弟子たちの誰の心にも辛かったであろう。「あなたがたのうちの一人が私を裏切る」と言われたからである。思わず、食べていたパンが喉に詰まったことだろう。彼らは代わる代わる言った。「主よ、まさか私ではないですよね?」

私たちもイエスに呼ばれた。彼に選ばれたのだ。しかし、いつの間にか彼を裏切ってしまう。この世の一寸先は闇、と言うが、キリスト者の一寸先も闇である。でも、そのことを考えていたら進めないし、何もできない。私たちは敢てこの世の闇の中に行くのである。なぜなら、闇が勝てなかったキリストが共におられるからである。闇の中に光を呼んでくださる神がおられるからだ。

イエスはご自分を裏切るユダにも、逃げて行くであろう弟子達にも、自分を三度知らないと言うペテロにも、食事を祝し、神に感謝し、そして賛美を歌った。この場面、私達も胸が詰まる場面である。弟子の思惑と、イエスの胸の中は異なるも、別れがやってくることにおいての接点だけはある。弟子達も不安でいっぱいであろう。主は悲しみでいっぱいであろう。主の悲しみは天の父の御心をまっとうすることへの戦いと、己が身に人類のすべての罪を負う恐ろしさであったろう。ご自分が一切知ることのなかった罪を背負うのだから。

信仰は神への応答と思う。神の導きに対し、どう応えるかが問われるからだ。神の目から逃げていては神に応答は出来ない。神の目から逃げるとは、同時に自分からも逃げることである。神に真向かうとは、同時に自分自身に真向かうことでもある。自分から逃げていた時、私は神からも逃げていたことを思い出す。キリスト者は決して弱い者ではない。非常に勇気を伴うのだ。神の前に立ち続ける兄弟姉妹達よ、あなたがたは勇者である。そして、神はあなた方を必ず用いられる。逆に、神からも自分からも逃げることに勇気は要らない。消極的、否定的、反抗的、自虐的、これらは決して勇気を必要としない。しかし、逃げ込む闇の中に光はない。

「まさか私ではないでしょう?」と言いながら悲しんだ弟子達の心がよく理解できるのも、信仰の道の厳しさを知った者ならではのことだ。しかし、そんな弟子達に憐れみと慈しみの眼差しをもって見てくださるイエスさまであるからこそ、今日の私達でいられるのも確かだ。私はルカの福音書の中で、イエスを三度否定したペテロを振り向かれる主の眼差しを決して忘れられない。

1986年7月31日、神はみことばによって私を呼ばれた。ゼカリヤ書3:7であった。「まさか、私ではないでしょう?」と思った。悲しみではなく、意外性と喜びと、疑心暗鬼の胸中であった。それから2年半、私は神の御声を慕いつつ、逃げたり戻ったりしていた。私にとってガリラヤ湖の魚は美味しく、湖の周囲は素晴らしく、緑と野の花は私を十分に喜ばせた。そして素晴らしい漁場であったから、今更イエスについて行って気苦労や苦しみをする必要はなかったのである。それでもイエスは私を呼ばれた。「わたしについて来なさい。あなたを人間を獲る漁師にするから。」・・・そして私は神の根気に負けた。 1989年二月、私は神学校の試験を受けた。それは5年間の学生生活の始まりと言うより、自分の中での葛藤と毎日のジレンマとの戦いへのスタートであった。しかし、五年後に訪れたイエスに仕えることの恵みが、いかほどのものかを知ることが出来る旅の始まりであった。

神はあなたを呼ばれる。 いつか?毎日である。 「まさか?」ではなく、真実と誠の方が「アーメン、わたしがあなたを呼んだ」と言われる。

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