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■ 向こう岸へ渡ろう / マルコ4:35~41 (2005-04-17)

夕方のガリラヤ湖、岸辺で遠巻きにしている群集を前にして、イエスは小舟に乗られたまま話をされていたが、急に弟子達に言われた。「向こう岸へ渡ろう!」。イエスは弟子達との短い航海を求められたのか。又は向こう岸に急用を思い出されたのか。敢えて危険な夜の湖に小舟を出される意図は何であったのだろう。しかし、弟子達は誰も逆らわずにイエスに従って行った。二艘の小舟は夕闇迫る湖の真ん中へと漕ぎ出して行った。

イエスと共に生きる人生は大船に乗ったようなものだろうか?そう思いたいし、そう祈る。だが、神は私達の願いのようではなく、ご自身の計画を為される。信仰生活はそれを認めさせられるための時間かも知れない。人生は神を信じなくてもやって行ける。だから、多くの人たちは神を信じないし、必要ともしない。それが時間の世界なのだ。しかし、問題は時間の世界は必ず終わりが来る、ということである。もしかしたら、あなたの明日に終わりが来るかも知れないし、数十年先かも分からない。そして、神を信じつつも困難な人生を強いられるときがある。何のための信仰かと、言いたくなるときもある。しかし、聖書の神への信仰はご利益宗教ではない。たとい、何が起ころうと、何がやって来ようと「神を信じ続ける」ところに、留まりたくなる「神の大きな愛」の迫りがあるのだ。

私はこの半月ほど体調を崩してしまった。原因不明の猛烈な腹痛が4日も続いた。四日間の中で三回も病院に行き、精密検査をしたが原因は確定できなかった。(メッセージを二週休んだのはそのためでもあった。)主に祈って痛みが止んだかと思うと、間もなくやってくる。痛み止めの薬の飲みすぎで昏々と日夜眠った。 それでも、痛みは去らなかった。私はふと思った。主はこのことを認めておられる。何故かわからない。そして、神は見捨ててはおられないことを。 だが、こういう日々の中での本当の損失は、聖書の言葉を聴き、様々な先達者の勧めと証を読み、祈る時間が取り去られたことであった。でも、イエスがおられなかったわけではない。彼はずっと私に付き添ってくださっていた。私の弱さと痛みのために、とりなしの祈りをしてくださっていた。 しかし、私には彼が見えなかったし、問題の解決をしてくださらない神に対し、ストレスを感じていた。

イエスと弟子の乗った舟は湖の深みにあった。そこに突風が吹き荒れ、大きな波が逆立って小舟を翻弄し、舟の中に流れ込んだ。弟子達は舟のバランスを考えながら、水をかい出した。だが、風も波もおさまらない。懸命に立ち向かう弟子達の視線の端に、眠っているイエスがいた。同じ舟にいるとは思えぬ対比があった。彼らは意気込んで叫んだであろう。「先生!私達が死んでも構わないのですか!」英語だと更に鬼気迫る。『Dont you cear if we drown!』何にもわかっていない先生だ・・と思った。しかし、それが現実の私達でもある。

イエスはむっくり起き上がって言われた。「どうしてそんなに怖がるのか?あなたがたの信仰はどこにあるのか?」そう言われるとイエスは風と波に向かって呼ばわった。「黙れ!静まれ!」そして、風も波も静まった。 信仰とは、ここだ!と言う時、それがいかなる状況下でも、主が眠っておられようと、救い主が共におられることを信じ続けることである。 弟子は呟く。「この方は一体誰だろう・・」 短い船旅で、弟子達はそこでしか体験できないものに遭遇した。信仰を問われるような現場であった。机の上でも礼拝の会衆席でもない。イエスがいる小舟でなければならなかった。あなたの人生も小舟である。その小舟に救い主が乗っておられるだろうか。仮に彼が眠っておられようと、関係ない。問題はイエスがおられる人生か否かである。

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