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■ 汝(な)がわざを為し給え / マルコの福音書5:21~43 (2005-05-01)

イエスの前に一人の男がひれ伏した。彼の名はヤイロ。会堂司である。彼の12歳になる娘が死に掛かっていた。もはや、医者のなす術もない。完全に危篤状態に陥ったのである。ヤイロはこの時まで、医者だけを頼りにしていたのであろうか。この事態になって初めて「ナザレのイエス」なら直してくれると知ったのだろうか。何はともあれ、彼はイエスに来ていただき、その手を置いてくれれば、必ず直る、と信じた。イエスのみ手さえ置いてくれるなら、と具体的な方法までも彼が望んでいるからだ。イエスと弟子達はヤイロの家に向かうも、大勢の群集も彼らと共に移動を始めた。

道すがら、一人の若い娘がイエスの後ろに近づいた。彼女は女性ならではの病で苦しんでいた。長い間に彼女は医者に財産を剥ぎ取られていた。彼女は思った。「この方の着物の端にさえ触れることが出来れば、必ず癒される」と信じていた。そして、彼女はイエスに触れた。そして癒された!

ヤイロはイエスにひれ伏した。娘はイエスの着ている物に触れれば癒される、という信仰であった。何れも劣らぬ主に対する確信があった。果たして我々はいかがであろうか。信仰がこのように、行動として神の前に出ているのだろうかと、振り返させられる。私達の内には聖霊が住んでおられるから、彼ら以上に神の前に出やすい。だが、祈りとか神への懇願という場所で、大胆な姿勢が自然と表現できているだろうか。別の場面では、陶酔し転げまわることさえするのにである。

イエスは自分の中から力が出て行くのを感じ、誰が自分に触ったかを確かめようとして、群集を見回していた。弟子達は師をたしなめた。「先生、これほどの人間がいるのに、誰があなたに触ったか知ろうとされるのですか?」 イエスに触れても、信仰をもっていなければ、ぶつかったに過ぎない。しかし、「着物に触れるだけでも癒される」という確信は、イエスから力を引き出せる、と言うことである。私達も覚えておいて決して損はない。アーメン?

彼らがそこで留まっている間にも、ヤイロの家から使いが来てこう告げた「娘さんは死にました。もう先生を煩わす必要もありません。」そう、すべては終わったのである。この世の絶対がまたまた勝利したのだ。だが、イエスがおられるなら事態は一変する。キリストがおられるなら、どれほどの負け試合であろうと、一発逆転満塁サヨナラホームランの世界が開かれるのである。

イエスはヤイロの家に整然と向かい、騒ぐ周囲に目もくれず、死んだ12歳の娘に向かって叫ぶ。「娘よ、起きよ!」すると、娘は起き上がった。彼女はイエスによって、命を取り戻した。主の呼び声は死人さえも死から呼び覚まし、罪びとを悪の泥沼から引き上げる。彼に勝利できる相手も存在もない!

居合わせたペテロはこれをつぶさに見て、震えたであろう。このことを文字にするには、どんな言葉を用いたらよいか。おそらくマルコに筆記させるに表現のしようがなかった筈だ。そこで彼は言った。 「娘は立ち上がった。彼女は12歳になっていたからである。」と。それしか、ペテロは表現しようがなかった。死んだ人間が生き返った、と言っても誰も鵜呑みにしないから。

「ながわざを為したまえ」あなたはそう祈れるか? 私たちには多くの願い、祈り、希望があるし、他者のための執りなしは多くの場合、緊急を要する。だが、「主がなさりたいことを先行してください。」とは、「みこころの天になる如く、地にもなさせたまえ」と同義語である。否、それ以上のものかも知れない。自分の思いを神の前に祈りつつも、ひたすら神が優先されることに対し、賛美をもってそれをたたえることなのだから。

ヤイロも娘も自分達の願いは「我が願い」であったが、彼らの懸命な姿勢は「主よ、あなたのわざをなさってください。そうすれば、私は癒され、娘は生きるのです!」である。この方しかいない!とういう立ち所では、我が願いも「主よ、汝がわざをなしたまえ」となるのかも知れない。

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