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■ 開いていても見えない目 / マルコの福音書7:31~38 (2005-07-17)

ある日、イエスの前に耳が聞こえず、口のきけない人が連れて来られた。彼自身の世界は長い時間、小さな部屋に閉じ込められている状態だった。私達も言葉を語れることの恵みを失ったとしたらどうだろう。自分の心や気持ちを表現できないとしたら。しかし、彼の人生で最も素晴らしい日がやってきた。目の前にいるナザレのイエスに、彼はすべての期待を賭けた。自分から来たのではなかった。誰かに手を引かれ、背を押され、気がついたらイエスの前にいた。

イエスは男の両の耳に指を差し入れ、彼の舌にさわられた。そして深く嘆息して、天を見上げた後、その人に向かって言われた。『エパタ!』すなわち、完全に開く、であった。その人は途端に話を始めた。起こりえない得ないことが起きた。イエスの深い嘆息はイエスが人間の体に生きる神の子ゆえのものだった。彼は人間の体の弱さを知っておられた。五感だけではなく、多くの器官の一つでも失われることの悲しみと不自由を、身をもって知っておられた。医者の手も及ばぬ苦しみの存在を、なぜか神は許しておられる。その苦しみの世界をイエスは体感され、共有された。神がこの男に直接触れてくださらない限り、開かれない希望の扉に向かって、イエスは呻きの声に近い嘆息と共に、男の霊に向かって命令された。

ここで言う「開く」とは、目とか耳、舌などの器官にとどまらず、男の心と霊、魂と言った内側の開放を意味する。ある特定の器官だけの癒しではない。そうでなければ、彼の霊性は神に向かわない。私達は困っている部分だけの癒しを求めがちである。だが、癒しを最も必要とするのは体の部分ではなく、内なる自分ではないだろうか。 マタイの福音書に中風に冒された一人の男性が、寝かされたままイエスのおられる家に連れて来られた場面がある。四人の男達は立錐の余地もないような混み合う室内を見ると、病人を寝台ごと屋根に担ぎ上げ、その家の屋根をはがし、イエスのおられるあたりに、病気の男を寝かせたままの状態でつり下ろした。それを見られたイエスは4人の信仰に対し、病気の男に向かって言われた。「子よ、しっかりせよ。あなたの罪は赦された!」神の癒しは先ず、人間の霊にほどこされる。

人の心が神に向かって開かれると、今まで見えなかったことが見えるようになる。目と耳に問題があるのではなく、心が開かれると、見えるようになるのだ。知識や経験、修練や勘で見えるのではなく、人の心がキリストに向かって開かれると見える、聞こえる、ようになる。例えば、自分の罪がはっきり見えた(自覚、認識)とき、神の慈しみを見る(感じるのではなく、見るのである)。更に、神の聖さに迫られると、自分の罪深さが見える(自覚する)。

自分の人生、生き方、考え方が本当に見えてきたとき、神から離れて生きていた自分が浮き上がってくる。過去の自分、今の自分、取り返しが効かない自分の生き様が澱んでいた底辺から、浮き上がってくる。ろ過しようがない汚れが染み込んでいる自分の心と体。どうしようもない。ここで使徒パウロは思わず叫んだ。「誰が、このみじめな人間を救ってくれるのだろう?」そして、彼はその場所で言う。「主、イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」十字架の前に膝を折って祈り、「そのために」死んでよみがえられたキリストに出会うことだけが、「エパタ」(完全に開く)なのである。罪、真っ赤な世界から、いきなり雪の白さの世界に置かれる。十字架の血潮だけが、それを成し遂げる。

十字架の血だけが、すべての人間を解放させる。長く閉じ込められていた罪の牢獄。獄の主(あるじ)から、神の光の中へ置かれる。出て見てわかる獄の暮らしと実態であった。

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