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■ 主の日が来る / マタイの福音書16:13~23 (2005-08-14)

聖書全体が絶えず未来に向かって宣言して来たことは、「主の日がくる」というメッセージである。 「主の日」は二通りの世界の到来を意味する。一つは神の支配が始まることであるが、これはクリスチャンにとってこの上なく、嬉しい日である。もう一つは目を疑うような未曾有の恐怖がやってくる。核戦争が世界中で始まったようなものであろうか。それは被造物世界の最後であり、天も地も崩れ去って跡形もなくなる、と聖書は言う。まさに信仰にあるか否かによって、人々は喜びと悲しみの極端な状況に置かれる。ふるい分けられるのである。その日は、必ずやってくる。私たちの都合などお構いなしに。 聖書は言う。「太陽は闇となり、月は血に変わる。」有史以来、今だかつて、こんな日はなかった筈のときがやってくるのである。

ピリポ・カイザリヤにおいて、イエスは弟子達に問われた。「人々は、私を誰と言っているか?」弟子達は口々に色んなことを言ったが、イエスは満足されなかった。イエスはペテロに向かって言われた。「あなたは、わたしを誰と言う?」 今、このメッセージを読んでおられるあなたは何と答えるだろうか? ペテロは言った。「あなたは生ける神の子、キリストです!」ペテロの輝く顔が見えるような場面である。生き生きと彼は言い放った。それを聞かれたイエスのみ顔もまた想像できる。「ヨナの息子・シモン!汝は幸いなり!汝にこれを示したるは、血肉にあらず、天にいます我が父なり!」血肉の人間ではなく、神の御霊に促されての言葉なのだ。 聖書には言葉を強調するべく「!」も「?」の記入もないから、何か平たい文章に思われる。だが、このやり取りは明快な応答が、間違いなくあったであろう、やり取りを想像できる。

そして、この直後にイエスはご自身の苦しみと死、そしてよみがえりを予言された。それを聞いたペテロは、あろうことか師に向かって訓戒を始めた。「先生、そんなことが起きよう筈がありません。いいや、あってはならないのです!」ペテロが言い終わらないうちに、イエスが一喝された。「下がれ!サタン。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている!」・・・この日はペテロにとって、まさに「主の日」であった。

終戦記念日が今年も巡って来た。この国にとって悲しみの極みであった敗戦宣言の日。だが、アジア及びアメリカにとっては勝利の日、歓喜の日であった。一つの日が二通りの大きな意味、それも対極に位置する意味が歴史に刻み込まれた日であった。これも、生ける神の「裁きと開放」と言うべき、ある意味での「主の日」であったろうか、とつい思ってしまう。多くの戦死者、犠牲者の尊い命と人生が失われた戦争であった。誰だって生きたい、と願ったはずである。そんな主張も出来ず、兵士達は死んでいった。この国と家族のために死んでいった。南の島々も、沖縄も、広島も長崎も、各都市も町も、みな破壊と死に見舞われた。 「主の大いなる恐るべき日」が来たようだった。侵略の報復として、生ける神が許された苦しみは今も尾を引いている。

日本は今また軍事国、そして戦争に向かって走り出している。世界の平和を唱えつつ、銃を携えて出掛けている。攻撃する危険が予知できる国がある限り、防御すべく軍事力も必要なのであろうか。核の恐ろしさを身をもって知った世界でたった一つの国なのに、過去60年の時間の中で、この国の宰相は核保有国に足を運んで一度も大声で体験国メッセージを発信していない。現実の悲しみと危惧すべき問題を前に、教会は世に向かってどんな信仰告白ができるのだろう。憲法を守っていない国が、どうやって国民を裁けるのだろう。 混沌極まりないこの国と世界、もう一方にイエスの問いかけを聞く狭間に置かれたキリスト者達にあっては、仮に今がどうであれ、あのペテロのように「汝はキリスト!生ける神の子なり!」と、声高に宣言すべく創造主に迫られている8月15日のような気がしてならない。

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