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■ 人間の思いと神の国 / マルコの福音書10:35~45

クリスチャンと言えども、全く普通の人間であるから人間的思いがついて回る。それは何かにつけて、人間的こだわりがある、と言うことだ。私など一冊の古びた大型の聖書にこだわりがある。その聖書は、私の父が亡くなった時に、母に贈ったものである。49年も連れ添った夫を失い、ぽっかりと穴のあいた心に慰めにと思い贈ったが、大きすぎて重いので、私の手元に戻ってきた。そしてその聖書をとおして献身と神学校への導きをいただいた。赤や黄色、緑のマーカーペンの線がすべてのページにあり、書き込みがある。その時、その時の私の思いと主の語りかけの交錯した足跡が記されている。だから、この聖書そのものに思い入れがある。しかし、それはあくまで人間の思い、でしかない。大切なことは、生きて働いてくださる主の生きた御言葉を聞いたことである。
 

ある時、イエスの二人の弟子、ヤコブとヨハネが言った。「先生、私達をあなたやがてつかれる栄光の座の、右と左に座らせてください。」イエスは答えられた。あなたがたは自分が求めていることの意味を分かっていない。」
 人間が考える栄光と神が示された栄光は本質的に異なるし、はるかに高く聖なる場所でもある。そこは時間の世界ではなく、永遠の世界である。
そしてイエスは言われた。「あなた方は私の盃を飲み、私のバプテスマが受けられますか?」
 盃は痛みと苦しみであり、バプテスマは十字架の死を意味する。弟子は言った。「受けます!」イエスの弟子として、彼らが殉教を全うするであろう未来をイエスは言われた。
そこでイエスは言われる。「なるほど。あなた方はそれを飲みもするし、受けもするであろう。しかし、誰がどこに座るかは私が決めることではない。」
 

 人間の思いと神の思いは天と地ほどの差がある。そして、離れている。それでは、この世には神の国のこれっぽちもないのであろうか?イエスは仰った。あなたがたの只ただ中に神の国は来ていると。
 

つい先日の新聞に小さい記事が載った。小さい記事だが、内容は非常に重かった。
パレスチナ人の少年がおもちゃの銃を持っていたため、警戒中のイスラエル兵に誤射された。イスラエル政府は遺憾の意を表明した。少年の死亡直後に両親が、臓器提供の意思を表明し、少年の心臓、肺、肝臓がイスラエル人の三人の子供達に提供され、手術は無事に終えた。少年の父は語った。「提供先が誰であろうと、関係ない。パレスチナが平和を望んでいることをイスラエルと世界に伝えたい。」
 少年の両親がしたことを、果たして私は出来るだろうか?出来ないと思う。そして、あなたはいかがであろうか。このことに似たような、起こり得ない出来事は世界中に起こっている。これも現実であり、事実である。そして、ここに神の国があった。神の御目には肌の色も国境もない。すべての人類は皆、神の子供であるからだ。
 

 人間は今を生きる。目の前の価値と宝と、生き甲斐をひたすら求めて。人間にとって神の国など興味がないであろうが、神は人間自身に大いに関心を持っておられる。キリストの十字架はその最たるものである。だから、神の国に関心を持とう。神は決してあなたを裏切らない。
 

 

 

 

 

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