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■ クリスマスその4・神に不可能なし / ルカの福音書2:26~38

「神にとって不可能はありません」(ルカの福音書1:37)と言う聖書の言葉がある。 多くの人が聖書を読む。だが、どれほどの人が「神にとって不可能なし」とする立場、思いで読んでいるだろうか。自分の人生に大した悩みがなければ、多くの人はそこに立てるだろう。だが、解決されない悩みや問題を抱えている人にとって、難しいと思う。自分に直接関わっている問題がある場合、その人にとって信仰生活は重みを与えるものである。しかし、そこでこそ「神に不可能なし」と言い切って行く強さを得る絶好のチャンスである。まさにピンチはチャンスである。

二千年前、神はヘブル人の一人の娘を選ばれた。その人生と心は純真で神を畏れて生きる娘であった。神の選びは、このマリヤという一人の娘であったが、それ以上に彼女の置かれているところの条件を神は見ておられた。それは、彼女に許婚がいると言うこと。その許婚はダビデの子孫であると言うことであった。これは神の一方的選びのように思えて、そうではない。すべての条件が満たされた「とき」にマリヤも含まれていたのである。神が与えたたもうたマリヤの宿命的人生とも言える。

み使いをとおして語られる内容にマリヤは恐れ、おびえた。それは、彼女は聖霊によってみごもり、男の子を産む。そして、その子は人類の救い主となる、というものであった。マリヤにとって、すべてが理解に苦しむ預言であった。いきなり訪れた宣告の中で、マリヤはその盃を受け入れて行く。瞬間的とも言えるみ使いとのやり取りの中で、マリヤの心をどのように変化していったのか。

恐れと迷いだけが彼女の心をかき回す。それはやがて不可解となる。そして不可解は信仰となった。

誰でも初めから信仰に立っているわけではない。人生、悩み、苦しみ、導き、すべてのところで出会うのは、不可解である。この不可解を人はどの様にして乗り越えるのか。 信仰は不可解の向こうに位置する。つまり、信仰に立つということは、不可解に直面した人が勝ち取れるものとも言える。更に端的に言うなら、「不可解と信じること」は同居しているとさえ言える。多くの人々は不可解だけに惑わされ、信仰から離れてゆく。だが、少数の人は迷いの霧の中で、神が用意されたものを掴み取って行く。不可解の中でしか、見分けられない神の宝があるのだ。そこでしか見つけられないものがある。誰もが得られない宝石がある。マリヤはそれを掴んだ。その結果、彼女は何と言ったか。 「どうか、あなたの御言葉どおり、この身になりますように」であった。

人は誰も不可解を好まない。だが、人生そのものが不可解であり、人間自身が不可解な存在である。比べて、神は少しも不可解ではない。神は絶えず、光と聖さと正義の中に存在される。クリスマス、神の一人子は不可解な世にお生まれになった。彼は、不可解な人間の罪を背負って死ぬために。

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