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■ 交差点 / マルコの福音書12:18~27 (2006-02-05)

「交差点」とは幾つかの方向から来た道が出会う場所である。 イエスは地上に降りてくださった。そして私達は彼と出会った。ここに交差点があった。 私達はこの世に生きつつ、神の国を思う。この世の不条理を嘆きつつ、神の国に思いをはせるが、自分が罪びとの存在であることも知っている。いろんな思いや感情と、神の国が出会う。私達の内側において・・・交差点は忙しく慌しい。

人間の思いと感情は、神さまからすれば、なんと滑稽で哀れなものに映っているのではと思う。ある本に笑い話のようだが、笑えないものが自分の内にあることに気づいた。 『ある町の司祭が天に召された。町の新聞は大げさな哀悼の言葉を書き連ねた。 [愛する司祭は、この涙の淵を渡って天国に旅立ったのである・・・・]と結んだ。 それから数日後、町の新聞社に電報が届いた。そこにはこうあった。 「シサイ マダツカヌ シンパイナリ    テンゴクニテ ペテロ」

人間はそれぞれの解釈と方向がある。しかし、天国においては、神が考えておられることだけがまかり通ることを忘れてはなるまい。神学論争は結構であるが、それらはテーブルの上の談義でしかないことも事実である。人間はコップの中で生きているくらい、狭い世界と狭量な考えの生き物である。海は広い。しかし、宇宙なそれに比較できないほど広い。

雨ニモマケズ・・・を読んで、作者の心に感動する。「ああ、そんな人生がいいなあ。」と多くの人が思う。しかし、イエスの言葉はどうだろう。「空の鳥を見よ。明日を心配しちぇいるだろうか?野の花を見よ。今日を生かされて精いっぱい来ているじゃないか。明日を思い煩うな、明日は明日が心配するから。」と言われても「分かってはいるけどね、でも無理だよね。」でしかない。理想があり、生きるべき見るべき方向が示されていても、現実が許さないし、そんなに甘いもんじゃないから。」とあきらめてしまうのである。この交差点はいつも渋滞でしかない。

昔、ユダヤでは長男の嫁が跡取りを生む前に長男が死んだ場合、次男が彼女を娶り、長男の子供を産ませるというしきたりがあった。彼とって子供は自分の息子ではなく、あくまで長男の代理をしただけである。 死者に復活があると言うグループと、復活はないとするグループがイエスに質問した。 「あるところに、7人の兄弟がいた。妻に子供を残さずに長男が死に、兄の嫁を娶った次男が死に、更に三男、四男、そして最後の息子も死んだ。その場合、やがて彼らが復活した場合、その嫁は誰の妻なのか?」と聞いた。 イエスは即座に答えられた。 そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力もしらないからである。」(マルコ12:24)

私達は殆どの場合、自分たちの方向だけで走っている。神が指し示す道に出会っても、頑として自分の選んだ道しか生きようとしない。知るべきは、主キリストだってカーナビを持っておられることである。彼のカーナビは一寸たりとも狂わない。この人生が後悔のない最善の場所に行く詳細なデータが、既にうち込んであるからだ。

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