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■ 我が思いのままにVS主のみ旨のままに / 第一列王記21:1~15 (2006-08-13)

アハブは北王国イスラエルの王、その妻イゼベルは隣国シドンの王の娘である。二人は相性としては最適であったと思う。ただ一つ、イゼベルは創造主を知らず、信ぜずの女性であったが、このことがイスラエルに大きな過ちをもたらした。誠に創造主を知らぬ存ぜぬものは、その人の人生を狂わせ、他者の人生も狂わせる。

今週15日は日本の敗戦記念日である。大陸においては開放の日、勝戦記念日である。何故このような無残で無意味で、終戦後66年経った今も日本中が迷っているのか。それは基本的にこの国は創造主を知らない、信じない国だからである。それはあまりに短絡的論理であろうか。かも知れない。しかし、そうだと思う。数百万の同胞が死に、同じ数の外国の人々を殺した戦争、そしてその数十倍の人々に体と心に多くの傷を残した。創造主とキリストを信じない民は、その心にブレーキを持たない。そして忘れてはなるまい。クリスチャンであっても、時としてブレーキを失ってしまう。人間とは実に弱くて小さい生き物だ。

戦争は二度と犯してはならない。これ以上の犯罪はない、と思う。先制攻撃を受けた場合、どうしようか?それでも殺してはならない、と新約聖書を理解する。戦争を仕掛けず、戦わず、関わらず、である。

戦時中、多くの牧師や信徒が時の官憲によってその人生と人間の尊厳を引きちぎられた。 安藤仲一先生、1942年頃の十一ヶ月間を獄の中で過ごされたそうだ。キリスト信仰によって非国民と呼ばれつつも、キリストを捨てなかったからである。コンクリートと石壁の中での師の楽しみは「主との交わり」と外の通路の石垣に生えた「ペンペン草」だったそうだ。その雑草が生きている今日を教えてくれたのであろう。まさに絶望の中のわずかな希望であった。だが、暫くして隣の房に移されると、その草さえも見えなくなった。その時の師の心中は察するに余りあるものがある。神はそれさえも奪いたもうたのであろうか・・・

しかし、数日後にふと見ると、なんとペンペン草は更に生長してその先っぽだけが顔をのぞかせて、こちらの房を覗き込んでいるかのようではないか。師は書いておられる。「あのときの喜びは、生涯忘れることができない。」 日頃見れば直ぐに引き抜いてしまうペンペンぐさも、その時だけはこよない慰めであったそうだ。

「心の問題」などと、どこかの宰相が言っていた。心の問題ではなく、心とは問題を含んでいるものだと言って欲しい。そして愛国心は押しつけられるものだとは、知らなかった。押し付けられねば、この国民には愛国心など無いのだろうか。間違ってもそうは思わない。愛国心は心に深く沈んでいるだけである。見えないから無い、のではない。 戦争放棄を謳った憲法は根底から揺さぶられている。軍靴の音が既に聞こえてきている。

創造主を拒む国は必ず滅びる。いつの世も、人間は堂々巡りの過ちを犯す。キリストは今日もカルバリの丘の十字架から叫んでおられる。 「父よ、彼らを赦したまえ。彼らは自分で何をしているのか分からないのですから。」 アーメン、そのとおりである。だから・・・・日本人よ、あなたの創造主に帰れ。アーメン!

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