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■ 神の息があなたを生かす / ローマ人への手紙1:16~17 (2006-10-22)

九月から十月にかけては、歯抜けの様なメッセージの足跡であるが、決してズルしたわけではなく、多くのメッセンジャーが来られてお話してくださったからである。読んでいただいておられる方に一言お伝えしたいと考えた。

福音はすべての人類に与えられた素晴らしいニュースである。 福音を拒む人たちに対しても福音であることは間違いないが、パウロは「十字架の言葉は拒む人たちにとっては愚かである」と言った。しかし、聞き手によって福音か否かよりも、福音そのものの本質はやはり福音に違いないと思う。

誰でも、イエスを信じるものは救われる、これ以上の福音があろうか。テロリストでも殺人者でも死刑囚でも、政治犯でも、皆救われる。幼児でも、死ぬ間際の人でも救われる。

私たちの教会は今、会堂予定地の買収に取り組んでいる。かれこれ一年、この問題と祈りに没頭してきた。こんな私達にとって福音とは、ジャンボ宝くじで1億円が当たった!と来たらこれ以上の福音はない。 だが、残念にも外れた。と、いうことは当教会の牧師は宝くじを買う人間であるということである。私は他人がどう思おうと構わない。聖書は決してくじを否定していないし、ユダが死んだ後、彼らはくじで使徒という重要な後釜を決めている。福音に仕える人材をくじで決めた。まあ、金目当てでなかったことに救いを覚えるが・・・ しかし、神さまが祝福を賜ろうと思われれば、どんな方法を取られるか、人間には想像しようもない。

このような大きな取り組み、それも信徒さんから献金を募っている時は、本当に楽しい。別に牧師にお金が入るわけではないが、教会員の青くなったり、不安になったり、何気なく装っている多種多様な顔を見ているだけでも楽しいものだ。まさに金はその人の信仰を全面にさらけ出す。神に頼るのか、金に頼るのか・・・・そういう自分もどっちつかずの者だなあ、とへこみつつ、主の憐れみに頼らざるを得ない。 それにしても、思い切ってかどうか分からないが、ドンと捧げる信徒を見るとき、本当に頭が下がる思いがする。特に裕福でもなく、余裕もないのに。そんな時思う。「ああ、この人は主に愛されているなあ・・・」

面白い話がある。アメリカのある教会が会堂拡張に取り組んでいた。資金集めに行き詰まっていた。ある朝、牧師は会衆の前に笑顔で現れ、こう言い放った。 「愛する兄弟姉妹、私はグッド・ニュースを持って来た。実は今朝、私達の教会は十分過ぎるほどの資金を与えられたのです!」教会員は皆ビックリするやら、喜ぶやらで顔を見合わせ、拍手も起こった。 牧師が会衆を制したので皆は牧師に目を向けた。次の瞬間、牧師は暗い顔つきになって、こう続けた。 「実は、バッド・ニュースもあるのです。それは、その資金の置かれている場所は、今だ皆さんの銀行口座であるということです・・・」シーン、と静まり返った礼拝堂、ざわつきが消え、ため息さえもれ、笑う人は誰もいなかった。 福音は悪いニュースと表裏一体か? 違う。福音はどこまで行っても福音だ。福音にリスクはない。どこから眺めても福音だ。

突然であるが、私が今、置かれている牧師の場所。私には天職であると思った。12年以上やってきて、初めて分かった。実に遅い、がしみじみそう思った。 生まれつき、特別に合った仕事、向いている仕事とは、とてもじゃないが言い難い。 まったくと言っていいほど向いていない、不似合で不釣合いな奉仕である。自分から求めたものではなく、主から背負わされた仕事。悩みも多く、気が向かない日も少なくない。それでも楽しい日だって数多くある。生き甲斐だってある。なぜ天職に気がついたかと言うと、主が福音を語らせよう、運ばせよう、と私を選ばれ、そして与えてくださった仕事、だからである。そして、その意味と幸せと選びにに納得した。

主よ、本当にありがとうございます、と言おう。あなたを知り、あなたに知られたことを、この生涯の誇りとします。天と地において、唯一なる主に栄光あれ。アーメン

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