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■ 彼の名はヨハネ / マタイ3章1~12 (2006-12-17)

December 17, 2006

アドベント(待降節)の三週目はローズ色のキャンドルに火が灯る。
それは、バプテスマのヨハネを象徴する。彼は最後の預言者である(ルカ16:16)。
 

バプテスマのヨハネ、彼はイエスの親戚筋にあたる人である。
 「主の通られる道を真っ直ぐにする者」として、彼の生まれる750年前に預言の書に書かれている。
その姿からして異様な人であった。食事はイナゴと野蜜・・・・
彼は人々に向かって、罪の食い改めを説いたが、私は思うことはヨハネは旧約の律法を引っさげ人々に罪の脱却を迫りつつ、同時に新約の恵みの幕を開けた人であったことだ。
つまり、旧約と新約の狭間に生きた人であった。
 

 時代は救い主を待っていた。ローマの占領下、ユダヤ人民は霊が渇き、魂はすさんでいた。
 彼らの待ち望むヒーローはカリスマ性に富み、人心を掴み、貧しさと圧制から開放し、ダビデの国を再興してくれる器であった。
そんな時代、バプテスマのヨハネ、そしてナザレのイエスが突如として登場したのである。
しかし二人の登場は、遠い昔に語られ、預言者を通して語られ続けた約束の実現による者のであることを、殆どの人は知らなかった。
 

ヨルダン川でヨハネは民衆に向かって叫んだ。
 「悔い改めよ!天の国が近づいたから!」
それは、まさに「荒野で呼ばわる者の声」(イザヤ書40章にある)であった。
 人々はあちこちから多数ヨハネのところにやってきて、自分の罪を告白して、ヨハネからバプテスマを受けたとある。特に社会の隅っこで暮らす人、盗みや詐欺、遊女や体にハンディを負うひとたちであったろう。女性も男性も若者も子供、老人もいたであろう。
 

もし、今の時代にヨハネが来て叫んだとしたら、日本人の誰が来るだろうか?と思った。
おそらく、であるが・・・教会の牧師、神父はくるだろうか?是非、来て欲しい。いや、来るはずだ。そして教会の役員、教会学校の先生、リーダー達がくるであろうか?是非来て欲しい。自分の罪を告白して、ヨハネのバプテスマを体験することは、ある意味必要であると思う。万人祭司を学び、そこに置かれていると思うなら、人間としての弱さも認識しているはずだから。イエスの永遠性において、バプテスマも罪の告白も終わったことと思うなら、それ自体が罪の自覚を麻痺させ、幾度ヨハネの水を通っても一向に変れない自分に出会うであろう。もし、そうであるなら、己が弱さを知らされる度、一度限りのイエスに従うバプテスマの意味は日々新たに思うことであろう。
 

 旧約の終わりは新約の初めであった。だが、その意味は旧約を成就されたお方が、新約の主人公となってくださったからである。
 

 

 

 

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