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■ 信仰の高嶺を目指す / 申命記3:15~29 (2007-01-07)

旧約聖書を読んでいて、何ともやりきれない箇所は、やはりモーセが約束の地を踏めなかったことである。イスラエル人100万はエジプトから脱出し、荒野を40年間さ迷い、ようやくの思いで神の約束された地へ辿り着こうとしていた。その寸前、小さいけれど、だが大きな事件があった。メリバの水の事件であった。

荒野で民は渇いていた。水を求めていた。 神はモーセに仰せられた。 「岩に向かって命じよ。そうすればわたしは岩から水を出す。」 モーセは民を前に苛立っていた、と私は感じる。苦情だけは並べ立てても、一言の感謝もない民に、モーセは怒っていた。彼は杖で岩を激しく幾度か叩いた。そして水がほとばしる。 だが、このことが神の逆鱗に触れた(のだろうかと、私は思う)。 結果的に神はモーセの態度を咎められた。

その後、モーセは悲痛な思いを神に訴える。「主よ、どうか私にあのヨルダン川を渡らせてください。あの約束の地を私に踏ませてください。」 しかし、神は仰せられた。「もう十分だ。このことを二度とわたしに言うな。あなたはかの地に入れない。ただ、ピスガの山に登り、目をあげてかの地を見よ。そここそ、わたしがイスラエルに与えようとしている地である。」

40年間、モーセは常人では耐えられない辛酸を舐めた。民と神の間に立ってとりなし、そして民を率いた。その彼が、何故約束の地に入れなかったのかと言う答えを、聖書は我々に答えない。読者にイライラを残す。聖書は言う、モーセはモアブの地で死んだが誰も彼の遺体を見ず、そして墓も知らなかった、と。

しかし、私は思う。答えがないことが、神の答えである、と。仮に納得行かずとも、わたしを信じなさい、と言っておられるように思う。人間が納得できるほどの神であるなら、それは人間が造った宗教ではないだろうか。神は絶対主である。絶対主を理解できるほど、人間は優れているだろうか?対等にものを考え、ものごとを共有できるほど、人は神に近いだろうか?

一点の罪無き神の一人子が、十字架の上で人間の罪の代わりに生贄にならねばならないほど、聖なる方の罪に対する眼差しは厳しい。神はあくまで聖であり、人間はあくまで罪深い。

聖書は勿論であるが、神が為されることすべてが、人間は理解不可能であるし、つじつまが合わない。不合理も不条理も感じる。しかし、それはあくまで我々が感じていることであって、神さまにおいては神の摂理と道理に合致しているのだ。時間の中でしか生きられない人間に、どうして永遠なる存在を理解できるだろう。聖書は永遠という視点を持ちながら、書かれてある。神の一言で太陽が置かれ、月が置かれ、陸と海が分かれた。ロバが人間の言葉を話し、太陽がひと時、その場に止まった。処女が身籠り、海の上をイエスは歩かれ、死んだラザロは飛び跳ねつつ墓から出てきた。考えてみれば、不合理の宝庫が聖書である。 だが、聖書は実に真面目にそれらを語る。しかし、それこそ神がなさることである。だから神である。人間が理解しようがするまいが、関係ない。神学がどれほど発展しようと、人間などとても神の知恵など得られない。神はご自身の御旨を粛々と行われるのみである。 人はひたすら神を信じ従い敬い、礼拝する。神を受け入れた人間にはそれが出来るし、神はそれを喜んでくださる。この接点だけのために、神は人間を造られたのである。

納得の行かない聖書箇所、納得出来ない人生の荒野で覚えよう。そここそ、信仰の働くところだと言う事を。

申命記はこの言葉で整然と終わっている。聖書はちゃんと答えている。 「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。 それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、 また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。」

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