■ 不労所得 / ローマ人への手紙3:28~4:15 (2007-02-18)
「信仰」という文字、実に的確な文字を選んだ、と思う。信じて仰ぐ、または信じて礼拝する意味だろうか。 仰ぐ、まさに天を仰ぐであろう。地上には最早、希望も策もない。仰ぐは天のみか、人間の限界の果てに現れる行動かも知れないが、信仰とは実にその様なところであろう。人間が立ち回っている間は、信仰など働きようもない。人間がなす術(すべ)を失ったときこそ、真の信仰の働きどころであると思う。だから、「お手上げだ」と言うとき、がっかりする必要もないであろう。そこから信仰の世界だから。
この地上で「永遠に変わらないものが二つある」と思う。 一つは神の永遠性と約束である。真夏に雪が降ろうが、聖書の神の約束は変わらない。それは創造主のご性格によるからだ。この方の故に、私やあなたは、今日も救われた者でいられる。神の永遠性は素晴らしい。時間の世界のすべては移り変わる。諸行無常の世界である。美しい世界であるが、反面実に空しい。この世は空の空、と伝道者は言った。
二つ目は、あなたは何であろうか? それは、人間と言う本質性と個人性である、と思う。 クリスチャンになって人は誰でも変わる。それもすべてと言っていいほど、良い人になる。なぜ良い人、と言うと、人間の悪い性質や悪い癖が直されるからだ。その人のうちに聖霊が働いてくれて、悪いものは悪いと悟らせたり、そのようなものは、人にとって必要でないことを教えるからである。だが、その人の個性がなくなるわけではない。生まれついた個性は失わない、と思う。そして、人間としての本質性も失わない。特に心の回路や喜怒哀楽に対する応答や受け方は、その人が生まれ持っていたものが作動する。信仰者になってからは、原因ときっかけが変化したことと、価値観が変わったのであって、個性や本質性は変わらないと、私は考える。
教会とは、罪人の集まりである。聖人の集まりでもあるのだが、罪人の集まりと言ったほうが適している。だから、罪のために死んでよみがえられたイエスを週ごとに礼拝する。聖人だったら、厳かな儀式で十分であろう。毎週、罪が語られる。それは、ややもすると、再び罪の世界に戻ってしまうからであろう。罪人であるから、彼らは罪人と自認している。 自認しているが、他者から言われたくないらしい。それは、自認しているだけのレベルだからだろうか。または、罪人である誰かから「罪人だ!」と呼ばれたくないからだろうか。わからない。
こんな我々罪人は、ひたすら十字架の憐れみにすがるしかない。創造主が送ってくださった御子イエスの血の贖いだけが、私を義としてくださるのだ。「何の働きも無い者を、神は義と認めてくださった」(ローマ書4:5節) 実に信仰による救いとは、「不労所得」である。このような不労所得は、世界に類を見ない。 受ける資格も価値も無い者に、神がくださった祝福と恵みは実に「不労所得」であって、他に何と言えるだろう。だのに、なぜか教会の人たちは、得た恵みを「勤労所得」に変更したいらしい。「不労所得者」と言われるのが、よほど癪にさわるらしい。見ると大勢のクリスチャンが「勤労所得者」になっている。 もう一度、ローマ書に向かい合うことである。パウロ先生はくどくどと、語ってくださった。「人はイエスを信じる信仰によってのみ、神から義とされる」。その道以外、救いはないのだと。
株の配当や値上がり分、預金金利、土地の値上がり分、皆「不労所得」に目の色を変えた。 だけど、永遠の命を無料でもらえる所得には、まったく興味がないらしい。ああ、どうして人間は本当の欲を持てないのだろう。