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■ 生活の焦点をキリストに / ローマ人への手紙10:13 (2007-09-09)

あなたの人生の焦点はどこにあるだろうか、と言うことより、「生活の焦点がどこにあるか」と考えたほうが具体的だと思う。生活、その現場が何に根ざしているか、と考えたほうが、明確で良いと思う。そうでなければ、キリストが何のためにこの世に降りられ、人として生きてくださったのかがカスレてしまう。人として生き、悩み、もがかれたと思う。罪はなくとも、人間としての弱さを知ってくださった。肉体の痛みを体感してくださった。だから、私達は生活の中でイエスと生きられる。彼は私の弱さを知っておられる。だから生きて働かれる主が共におられることに感謝がある。

生きることの価値は、この世にだってたくさんある。家、財産、健康、家族、趣味などなど。でもそれらは永遠ではない。すべてこの世に置いて行くものであり、廃れ失われてゆくものばかりだ。 だから、永遠のものが、生活の焦点であることが必要だ。ここにこそ、賭ける意味がある。

「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」ローマ10:13にある。 救われると言う意味は、先ず魂の救いを指す。罪人がイエスを信じ受け入れて、その罪が贖われ赦された際に、「救われた」と言う。だが、救いとはクリスチャンになってしばらくしてから、本当にその意味を実感するのである。クリスチャンとして生きる生活の現場で、それを体験してゆくのだ。

生きるところ、悩みがあり、問題がある。絶えずやってくる。生きるとは問題に遭遇することか?とさえ考えてしまう。しかし、主の御名を呼び求めるとき、本当に救われる。困難と試練から、救われる。そこにおいて耐える力、神の助けを待ち望む力が与えられる。

もし、イエスを信じていない人生だったら、この世から消滅してしまいたいことだってある。実際、そうやって年間に三万人を超す日本人が死んで行っている。 しかし、キリストと生きるなら、死ぬどころではない!明日を神に託し、今日生きることに喜びさえ与えられるのだ。 試練のど真ん中で、神の愛と力に出会うのだ。これが、救いでなくて何であろう。だから主の御名を呼び続ける。

1978年1月1日、私はこの日から、自らの意思によって日曜礼拝に行った、と言っても行っただけであって、私は心の耳も目も閉じていた。意識して閉じたのではなく、無意識で閉じていた。それは生まれながらの人間状態であった。牧師の話はチンプンカンプン・・・さっぱりチューニングできない。何とも退屈。その期間の自分の気持ちの動きなど、まったく記憶がないのだ。

そして、3月12日、奇跡がやって来た。大変申し訳ないが、牧師の話からではなく、聖書から直に、神さまが私に迫ってくださった。つまり、メッセージ箇所からではなく、自分勝手に創世記を読んでいた、その箇所からだった。面白く思った。そして、その晩、私は聖書の神を信じた。神さまのことは分からないが、この方に決めた。

次の日曜、私は改めて教会の壁を見た。そこには元旦から張ってあった紙があった。 そこには「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」との、聖書の言葉が書いてあった。その時、私は始めてその意味がわかった。それは始めて私の目に入ったのである。先週も、いいや、正月の元旦から書いて張ってあったのに、私の目には映らなかったのだ。何とも不思議なものであった。神さまが私の心に入られたから、私の目からウロコが落ちて、見るべきものが見えたのであった。そして、私は救いの凄さを体験した。

それから29年、今は意識して「主の御名」を呼び求め、多くの困難から救われた。その御名が救いを日々もたらすのである。何故なら、彼はよみがえられ、今日も生きておられるからだ。ハレルヤ!その御名には人を、人生を、生活の中のあなたを救う力がある。 聖書が言うとおり、神の言葉は人の魂と霊を救う。

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