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■ イエスは再びは生まれない / マタイ24:1~14 (2007-12-02)

クリスマス、不思議な季節である。 クリスマスには4つの日曜を含むアドベント(待降節)がある。救い主を待ち望む思いに導かれるが、神の愛を思い、私達は内側へ内側へと導かれるような思いに導かれる。 小さい赤子、まったく無抵抗な赤ん坊として、この罪の世にお生まれになったイエスを思うとき、天の父の慈愛がこの身に迫る。

イスラエル人、つまりユダヤ人は1800年間というもの、国と政府が存在しなかった。この地上から抹殺された国であった。ユダヤ人は世界中に散らされ、それでも強く生き残った。神が選ばれた選民は、神が守られ通されたからだ。 しかし、不条理で非情な運命を背負わされた民族は、どこへ行っても大きな迫害を受けた。彼らはユダヤ人とユダヤ教という枠の中でのみ、存続し続けた。

20世紀半ばに国が再興し、1800年間消えていた国とヘブライ語が復活した。 そして彼らは今も待っている。メシア(救い主)の到来を信じて待っている。 彼らにとってクリスマスは無関係である。彼らのアドベントは年間を通して毎日なのである。

クリスチャンはメシアを待った二千年前の僅かな人々の心と自分達をかぶせてこの時期を過ごす。あの当時、幾人が期待してメシアを待っていたのだろう。 寒い夜、小さい灯火にイエスを思う。暗い夜は当時の暗い世相を象徴しているかのようだ。 たとい全世界が真っ暗闇であろうと、「光よあれ!」と光を創られた創造主を信じ、信仰によって待つ。 第一次、第二次世界大戦の時も、人類はメシアの灯りを待っていたのだろう。

イエスは家畜小屋で生まれた。若い母、マリヤから人の子としてお生まれになった。クリスチャン達は、自分の罪のために生まれたイエスを二千年という時間を超えて、我が事として喜ぶ。それは単なる生誕祭ではない。私が赦されるきっかけになったスタートの日である。救いはあの夜、既にスタートしていたからだ。

私は今年、別な視点を神さまから強く導かれた。 それは「イエスは再び赤子として、お生まれにならない!」ということである。 彼は既に来られ、十字架を背負い、人類の罪を背負われ、死んで三日目によみがえられた。キリスト者として、本当のアドベントは「再び来られ給う裁きのメシア」を待ち望む季節として、敢えてこの時期に考えたい。

彼は今日か明日か、いつの日かわからない。 しかし、彼は来られる。それは間もなく、必ず来る。 世界中に福音は行き渡った。聖書は全ての民族の言葉に訳された。 宣教師は極寒の地から熱帯のジャングルの奥まで、福音を伝えた。すべての民は信じない。皆がキリスト者にはならない。戦争は終わらない。どれほど祈っても、である。 だが、彼は来られる。福音が世界に広められ、教会は世界に建てられた。救いが宣伝えられた。だから彼は来る。

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