■ クリスマス・神の謙遜 / ルカの福音書2:1~20 (2007-12-23)

神は小さくて無抵抗な赤ちゃんをこの世に送ってくださった。 彼は家畜小屋のような場所で産声をあげた。 人々は忙しさに追われ、彼のことなど知る由もなかった。 若い両親と、羊飼いに見守られて、この時間の世界の空気を吸った。 寒い晩、星が今にも落ちて来そうに見える空だったであろう。 まさに希望の星となって、彼はこの世に降り立ったのである。 一点の罪なき世界から、罪に赤く染まったこの世へと。

クリスマス・キャンドルにイエスがダブって見える。 僅かな風にも揺れ動き、今にも消えてしまいそうなキャンドルの灯。 しかし、彼は消えなかった。消えなかっただけでなく、人々の心に灯火をつけてくださった。救い主はそういうお方であった。 三年間という短い公生涯は充分以上に赤々と燃え、この世と人間の罪を照らし出した。 そして今も、である。

私はイエスのお生まれになった姿、そして小さい光りを想像して、「神の謙遜」を見た。 静かに穏やかに、そして厳かに、その高潔な生涯は「謙遜の極み」を思わせる。

私達は謙遜に成れるのだろうか? 成れると思う。私がキリストに跪くならば。同様に人がキリストに跪くなら。 そして教会は謙遜を失えるだろうか? 失う、と私は思う。教会の中心がキリストでなくなった時、教会であろうと謙遜を失う。 人が中心、教会の業績、功績が中心。神とキリスト、罪と赦しが先頭をきってメッセージされなくなったとき、教会は空洞になり、単なる人の集団となる。そして人間だけが目立ってくる。それでも、神は教会から灯を中々消されない。不思議である。 イザヤ書42章に『彼はくすぶる灯心を消すこともなく・・・・・』とあった。

「あなたは謙遜ですか?」に対し、 「いいえ、とんでもありません」と言うことと同時に、「信仰に入る前と比べたら、はるかに謙遜になりました」とも言うべきであろう。 以前は己を神としていて、「神さま」と心から真剣には言わなかった。 しかし、今は言う。「神さま、こんな罪人の私を赦してください。助けてください。」と祈れるのだから。 これも神がそうさせてくださったのである。自分でなったのではない。

神がマリヤを選ばれた。彼女は処女であった。純粋であり、素直な娘であった。そして誰よりも清く、神を畏れる乙女であった。 ヨセフ・・ダビデの末裔であった。彼もまた神を畏れつつ、人を愛せる人物であった。 2人には財産も地位もない。貧しく、力もなかった。

神の謙遜はそれに相応しい選びをされた。 ここに人間の傲慢が立ち入る隙はない。神が100%の選択眼をもって選ばれたのだから。 人間の想像と目論みも入り込めない。つけいる隙を神は与えられなかった。 だのに、十字架のとき、神はイエスのすべてに対し、人間のつけいる対象とされた。 何故か? だがそこで、神の謙遜な救済が完成したのだ。そこでしか、人の魂が救われない。 そして今、私たちは聖霊の助けなくして、キリストに跪けない。 人間とは、かくも傲慢な生き物なのであり、神の愛の対象としての存在なのである。

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