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■ あの方の血を忘れない / ローマ人への手紙15:8~17 (2008-01-27)

私達は、あの方(イエス・キリスト)の血によって、罪赦され救われた。 ここを忘れて、クリスチャンの「クの字」も存在し得ない。 そして、ついつい忘れがちなことになってしまう場合が多いがこの部分もである。 だから、聖霊は働かれない。

パウロは聖霊の力によって、異邦人が救われ、異邦人が喜び、神をたたえ希望が持てると確信した。そして、そのために彼は神に呼ばれたと信じた。 創世記、あのおとぎ話のような現実の中で約束された神は、キリストを通して、遂に方向転換ならぬ契約の成就へと、その指を動かされたのである。その器こそがパウロであった。

さて、あなたは、すべてのクリスチャンが持っている弱さをご存知であろうか? 全てであるから神父も牧師も当然、その中に入る。 それは「聖霊に従えない、従わない」ことである。 ここに多くのキリスト者の葛藤がある。 実に人間とは、弱い生き物である。しかし、だからこそ、日々、神の前にうなだれて、手を合わせ、膝を折って、赦しを乞うのである。それによって、また新しく希望に満ちて生きられるのは、主である神の憐れみに他ならない。

私たちは聖霊によって聖なる者とされ、聖霊によって罪が指摘され、聖霊によって神への清き捧げものとなる。 ローマ人への手紙はそう語る。聖書がそう語る。 だから、聖霊に従うべきである。「・・べきである。」と聞いて、嫌気のさす人が多いらしい。実にヤワである。べきはべきであって、「・・では、ないでしょうか。」ではない。

イエスのみことばの中で、最も厳しいものは何であろう。 どこを見ても、これ以上に厳しいみことばはないと思う。 それはマタイ12章にある。 『だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。』 実に新約聖書で最も厳しいことばである。私は毎日、聖霊を無視している。聖霊の声を聞いて聞かぬ振りをしている。かと言って、聖霊に働いて欲しい、と祈る。実に聖霊を冒涜している。 主は言われた、「赦されない」と。 どんな罪も赦されるが、それだけは無理だ、と言われた。

こんな私である。あの方の血潮によって赦されるしかない、自分。 どう、もがいても、他に救われる道はない。 でも、そのためにイエスの血が流された。絶対に赦されようもないクリスチャンであっても、あの方の血が清める。 世に赦されたキリスト者と言う罪びとがいる。 そして赦しをもらっていない世人、つまり罪びとがいる。 そして、もっとも罪深い者は? そう、私達、キリスト者だ。何故か?目が見える、神を知った、と言っているからだ。 知ったなら知った様に生きたい。生きるべきである。 「べき」であるが、「べき」に生きられない己が弱さと貧しさ、醜さを十字架に曝して行くしかない。 なぜなら、あの方の血はそこにあるからだ。

ヨハネ9章39~41 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。 「私たちも盲目なのですか。」 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

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