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■ 神よ、どうして私をお見捨てになったのですか / マルコの福音書15:10~39 (2008-03-16)

多くの人々、その人生にあって思わず呻いてしまう時があるだろう。 普通の日本人であるなら、さしずめこう言うのだろうか。 「神も仏もあるものか・・」 しかし、仮にも神を意識した人、又は信じた人はおそらくこう言う。 「神は私を見捨てた・・」と。 実に辛い場面である。誰が襲われても不思議の無い人生の暗闇、絶望と思えるときがある。 そして、神の御子、イエスがこの言葉を叫ばれた。 「神よ、どうして私を見捨てられたのですか」 だが、彼のその思いと叫びが、私やあなたの救いにつながろうとは、当時それを聞いた人々は夢にも思わなかったであろう。

イエスは神に見捨てられた、のである。 当然である。彼の体はすべての人類の罪で緋色に染まり、重く圧し掛かっていたのだから。 その緋色に私の罪が混じっていた。あなたの罪が混じっていた。 イエスは「汚れ無きいけにえ」として、彼以上に相応しいものはなかった。 否、彼でなければならなかったのだ。それが彼の使命であり、宿命であった。

イエスの死が人々を癒す。イエスの謙遜と従順が私達の魂を癒し、そして救う。 人間が持つ憎しみとねたみの感情、他者を赦せない感情、人間性にとって、すべてのマイナス要因を、イエスは十字架によって背負ってくださった。 だから、イエスに思いを馳せるだけでも、それらは癒され、霧のように消えてしまう。 神の摂理は人間などに説明できない。どれほどの憎しみや悲しみも、十字架が癒す。 誰が、十字架の摂理を説明できよう。イエスの十字架は、悪魔が勝ち誇った場面ではない。神が苦しむことを犠牲にして、勝ち取った勝利者の雄叫びであった。 十字架は神の聖域である。人間の小賢しい論理など全く空しい。

アパ・ルームと言うデボーション・ブックにクリスチャンの証が掲載されていた。 ルイジアナに住むドリスというお母さんに24歳の息子がいた。明るくて真面目で善良な一市民であった。だが、彼は突然、殺された。妬みという動機から・・・

母親は幾度も幾度も、神に叫んだであろう。 「主よ、どうしてですか?なぜ、息子は死ななければ、ならなかったのですか?」 だが答えは無かった。そして、しばらくして、夫が病気で死んだ。 普通に、真面目に生きていた家族を襲った悲劇。 「私達には絶対に起らない」と誰も言えない現実。

そして、ドリスはこう述懐する。 「当時、私は神から離れた人生を送っていた。そう、神は私を見捨てられたのだから。」 私は彼女へのアドバイスは持たないし、何も言えない。言う立場も資格もない。 そして、十字架のイエスに向かっては尚更に何も言えない。 もし言うとしたら、「主よ、私を赦してください。」でしかない。

ある日曜の朝、ドリスは娘の教会の礼拝に出席した。 その朝、彼女の心に神からの平安と静けさが訪れた。 やがて、教会に通う日々の中、彼女にイエスへの信仰が戻った。 キリストが彼女の魂に触れたとき、息子を死に追いやった人々さえも赦した。 更に、彼女が知ったこと。 「神は、決して私を見捨てられない。」という確信だった。 あの苦しみと悲しみ、怒りと驚愕のときも、実に神は私と共に、いてくださったのです。と、ドリスは告白している。

イエスの十字架、神は彼を見捨てられたのか。 私は、そうではない、と知った。あのときも、天の父はイエスを励まされたと思う。 悲しみ、苦しむ一人息子のイエスを、神は見捨てられなかったと思う。 イエスは最後まで、父に従順な者であり続けた。 そして、その故に、イエスはその三日後、墓からよみがえられたのである。 神が彼をよみがえらされたのである。 イエスの十字架の傍らで、もがき苦しむ父、悲しむ神を、私は想像する。

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