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■ 天の御国は・・・・・? / マタイ13章44~52 (2008-04-13)

神の国と天の御国は違う。 どこが違うかというと、神の国は、時として私達のただ中にあるものだが、天の国は文字通り天の彼方にあるからだ。 では、神の国はどうあるのか? 神の国は天にあるが、時として地上に点在もする。イエスさまはそう仰られた。 それは、あなたが神を信じる平安のときに、あなたの心に神の国がある。 また、裂かれていた人間関係が修復され、和解が成立したとき、そこに神の国がある。

天の国は私達を待っている。それはやってるのではなく、私達を恋い慕って待っている。 そして、天の国は見え隠れする。

では、私はいつ、その存在を知ったか? そう、イエスさまを心にお迎えしたときだった。それ以前は知らなかった。クリスチャンの全部がそうであったとも言える。 そう!キリストを信じ、受け入れたときに、天の国を知った。

ならば、天の国はキリストをつたって行けば、入れるのか? そのとおり、キリストを辿って行けば、間違いなく入れる、と聖書にある。 ヨハネ14章6節はそう語る。

天の国は時々見えなくなる。 それは、あなたがいつもキリストを見ていないし、私がキリストを見過ごすからだ。 キリストをしっかり見続け、感謝に浸るとき、天の国は心配なく、キリストの向こうに控えているのだ。 現状がいかであろうと、天の国は存在している。 だから、現状に惑わされ、イエスを見失わないことが大切である。 現状自体にイエスを見失わせる力はないのだが、私達の心が動揺し、見失ってしまうのだ。

天の国に関して、一番残念なことがある。 それは、天の国に対する「人間の心に渇きが無い」ということである。 渇いている人も勿論いる。不治の病、日々迫る絶望、明日を知れぬ命を抱えている人たち。 この人々は、天の国に渇いている。 だが、そこそこの健康があり、とりあえず日々の暮らしがあり、何とかやって行ける場合、 又はこの世の生活に満足している場合、天の国に対する渇きが失せている。と、言うことは、キリストに対しても渇きがないとさえ、言えないだろうか。

最後に、天の国は残酷?な一面を持つ。 それは、キリストを信じる者と、信じない者を選り分ける。 一方は永遠の神の国に入れられ、一方は永遠の火の中で苦しみ続ける。 永遠に後悔のないよう,読者はしっかりとマタイ13章47~49を読んでいただきたい。

イエスが地上に来られたことは、一つにそういうことを人間に理解させ、選択する必要があることを教えるためであったと思う。 今、息をして、生きている時間の中で、あなたは選ばねばならない。 イエスをキリストとして受け入れるか、または否定すのかを。

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