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■ ノア最終章・たまに後ろ向きも悪くはない / 創世記9:18~29 (2008-09-21)

どんな人も、その人生において、限りなく失敗する。 人は実に、失敗する生き物である。 聖書の登場人物は皆、失敗した。 しかし、そこに自分を見る。だから、共感する。失敗を共感するところに、救いへの道が開かれる。他人事と決め付けて、無視し続ける人は、心が開かない。 すると、神さまが働かない。働かれなければ、救いがない。 つまり、神は人間が弱さを認める世界に働く。そう、弱さは隠す必要などない。少なくとも、キリストの前には。

ノアはある日、ぶどう酒を飲みすぎて泥酔した。 彼は素っ裸になって大の字で寝ていたと、思われる。そこへハムと言う息子が入って来た。 ハムは父の姿を見て驚き、表に行って他の兄弟にそのことを告げた。 ところが、聞いた二人の息子は後ろ向きになって父の部屋へ入り、その姿を見ずに父の体に布をかけて覆った。

この箇所、後ろ向きに入る息子達に対し、父への思いやりと謙遜を見た。 そこで、実際に「後ろ向き」という事を考えた。

何事も前向きが良いが、たまには後ろ向きが必用なときもある。 たとえば、礼拝には二つの意味が込められている。 先ず、神に向かう。これは前向きだ。 そして、礼拝者は自分に向かい合う。神に向かったその目で、今度は自分に向かう。 静かに自分に向かい合ったとき、人は自分の罪深さを知る。その時点では後ろ向きとも言えなくはない。後ろ向きだから、自分の罪に出会えるのではないか、そう思った。

『汝ら静まりて我の神たるを知れ』文語訳の詩篇46:10にある。 ここでの静まるとは、誰かのことを考えたり、想像することではない。 静まるとは自分に向かい会うことだ。物言わず、言い訳せず、ただ、あるがままの自分に向かい合う。失敗続きの、我が人生に出会う。 そこで人は誰に出会う?自分を憐れみ、慈しみをくださる神に出会う。 そうすれば、あなたは神の神たるを知るから、と聖書は言う。

神はどれほどの赦しと憐れみを私に下さっておられるのだろう。 それは限りなくである。 神が私の、あなたの失敗や裏切りに対し、どれだけ後ろ向きになってくださったか? どれだけ、見て見ぬ振りを、知っていながら知らない素振りをしてくださったか?

そう、たまには後ろ向きも良い。 前向きに疲れたら、後ろ向きになって見たら良い。 そんな場面で、本当の自分に出会うかも知れないから。

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