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■ 弟子はしもべ / マルコの福音書9:33~35 (2008-10-05)

ある日、イエスの弟子たちは道々歩きながら、仲間内で誰が一番偉いのか、熱心に話し合っていた。 私達もそういう議論は大好きだ。そして、そういうことを議論できる関係も「いいもんだ」と思った。程度は低いが、心の中にしまっておいて、思いを巡らすよりも、アッケラカンで良いと思った。 最低な話題は誰かのあら探しである。そして、誰かの弱点をばらし合うことだ。こっちのほうが程度は低い。 人間が集団を作ると、大概は人間としてのレベルや資質が落ちる場合が多い。何故か分からないが、集団を作ると人間性が変わるのである。集団というものを盾にして、自分の弱さを隠し、数倍強くなったかのように、錯覚する。集団暴行などする連中こそ、一人では何もできない者の集まりだったりする。これは人間として最低である。

私が25年ほど前、神さまか与えられたと信じる二つのことがある。 一つはキリストの弟子を養うことであり、もう一つは教会家族である。 教会を幾つかにグループ分けして、その中にリーダーを立てる。リーダーは自分のファミリーを見守り、出来うる限りで良いから、世話をする。それは、教会が忘れている存在を出さないことである。 しかし、リーダーはリーダーではない。皆のしもべ(女性は、はしため)となるのである。 イエスが言われたように、皆の上に立つ者は、皆のしもべとなるべきである。 リーダーになはなるが、しもべには、なりにくいものである。 皆の上に立つことは好きでも、しもべは嫌だ。 だが、主の教えはそれを否定された。しもべこそ、主の生き様であったのだ。

キリストの弟子はしもべだと思う。慇懃無礼という言葉がある。表面的には謙遜であるが、内側は尊大。そういう人のことである。 しかし、神さまによって芯まで砕かれた人をみると、やはりキリストの弟子だなぁと思う。 実に、弟子はしもべ、である。キリストによって変えられるしかないのだが・・・

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