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■ 今だけの神、ですか? / マタイ16:24~27 (2008-11-23)

先週、TVで「特殊清掃業」に関しての放送を見た。 孤独死のあった部屋の処理業である。場合によっては、ひと月もの間、死んだことも知られない人もあっただろう。現代の悲しい断面を見た。 反面、部屋は死臭と他の生活面での匂いが入り混じり、凄まじい匂いだと想像した。 特殊な薬品を現場で調合し、匂いを完全に消す。沁み込んだ物があれば、エアコンさえも取り替える。 「その後」の部屋を専門に清掃する仕事は、本当に大変だと思いつつ、そういう仕事が成り立つことの悲しみと侘しさを思わずにいられない。

一人の男性は、多額の借金を残して家を出た。不動産業の失敗だった。 残された妻と幼い娘はどれほど大変であったか想像がつく。 成長した娘は嫁ぐ際、式に父親を敢えて呼ばなかった。 しかし、子を持って知った親の心の今は、父に対する考え方に変化が生じた。 子供をお爺ちゃんに会わせたかった。そう思って父と対面した。 だが、孫と対面した祖父は、娘に向かって「すまない、すまない」を繰り返し、涙にくれるだけだった。 やがて、孫からお爺ちゃんに手紙や写真が届いたが、祖父はそれを大切にし、眺めた。 そして一人、誰にも看取られずに死んで逝った。 父が死んでいた浴槽のドアガラスに手をおいて、娘は泣いて絶ち続けた。 どうし様もない過去だけが、すべてを支配していた。 人間はどうしても、過去と今しか生きられない。 だが、キリストを知り、過去から離れたとき、人は今から未来へと生きられる者となる。

マタイ16章27節 『人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。 その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。』

このみことばは、私達に対して、強いチャレンジを発する。 イエスを信じている。彼が十字架で死んだこと、三日目によみがえったこと。そしてオリーブ山から天に昇られたことを信じている。 しかし、再臨されるという約束、そして人々の生き方に対して報いをされる方、という点ではどうだろう? だが、クリスチャンだと言うなら、そこまで信じるし、更なる重みを添えて、信じ生きる筈である。 そこまで信じてこそ、キリスト者である。

そして、そこまで信じると何かが変わるのだ。 そう、今だけでなく、未来へ目が向く。未来に向かって生きること、力を与えられる。 過去のすべての罪が赦され、今が身軽に明るく生きられるようになった。 しかし、やがて来られるイエスを思うなら、今だけでなく、未来へと視界が広がり、生きるべき方向性が定まる。再び過去の汚れた生き方に戻らぬためにも、イエスの再臨は心強く、希望に満たされる。 今が辛くても、未来がある。信仰に生きる今が苦しくても、イエスに会える希望が輝く。

ルカの福音書18章にも再臨のイエスの言葉が書いてある。 しかし、その最後に警告と思える言葉がある。 18:8 『 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。』 果たして地上に信仰が見られるだろうか?と主は言われた。 そう、再臨の主を待つ、と言うクリスチャンたちの内、どれだけの人たちが本当に再臨の主を認められるか、待っているのか、である。 再臨のイエスを待ち続けるキリスト者でない限り、恐れおののいて逃げ惑うのだろう。 これだと笑い者になってしまうだけだ。笑い者だけで済まなくなうだろう。

聖歌「安けさは川の如く」という歌の4番。 「よしあめつち崩れ去り、ラッパの音と共に、御子イエス現わるるとも などて恐るべしや」 そして、最後にこう歌う。 「全てさ安し、御神 共にませば」 実に救いである。

主はやがて裁き主として来られる。 私達の生き方に報いるために。 人間は、裁き主なるイエスを見落としていないだろうか? ふと、我が身を覚え、そう感じた。

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