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■ 天上のことなど人は知る由もない / ヨブ記1:1~12 (2010-01-10)

ヨブ記は、人間がどれほど神の世界を知らずに生きているかということを、悟らせる書物である。 ヨブほど神を畏れ敬う生活を送った人など、この地上にいない。 そして、ヨブほどの試練を受けた人もいない。 聖書が言う、「東の国の人々の中で一番の富豪であった。」だけでなく、7人の息子と3人の娘、互いが行き来をし、兄弟仲睦まじく、すべて健康のうちに過ごしていた。 しかし、ヨブ家を襲った凄まじい試練(これはテストであった)により、彼に残されたのは、彼をなじる妻と、彼の命だけだった。

ヨブ記から私は自分勝手であるが5つの個性を考えた。 1、 ヨブ記は神学と哲学の論争集である。 2、 ヨブ記は人間の無力と未知なる神に挟まれ、押し出された限界という世界である。 3、 ヨブ記が書かれた目的は、最後の章の1から6節にある。 4、 ヨブ記こそがキリスト教の心髄である。 5、 ヨブ記の対極に位置するのが、伝道者の書である。

ある日、神の前にサタンがやって来て言った。 「ヨブの信仰深さは、神が彼に与えた多くの財産を初めとする祝福のせいである。もし、彼からそれらを取り上げたら、きっと彼はあなたを呪うであろう。」 そして、神はヨブの身をサタンにまかせた。 その結果、ヨブの息子、娘達、そして家畜と財産のすべてが取り去られた。 それでもヨブは神を呪うことはしなかった。

人間に天上のことなど分からない。 そこは霊なる神と、霊なる御使いだけの世界である。 と、思っていたが、ヨブ記ではサタンも自由に出入りしている。 なるほど、サタンとて霊的存在である。 サタンは人間への苦しみを与える器なのであろうか。 そして、神の許す範囲でのみ、人間に対し試みがサタンから与えられた。

私達は思う。 どう、生きたら試練の少ない、平和で楽しい人生が送れるのだろう。 この日に施した善意を神は見てくださっただろうか。 今、この瞬間の心の悪意を神は感づいておられただろうか。

また思う。 神はどうして、この祈りを聞き届けてくださらないのか。 神はどうして、この不条理を見過ごされたのか。 神はどうして罪無き者達の苦しみを見過ごし、悪がのさばっているのを見過ごされるのか。

誰もが持っている、これらの疑問に対する答えは地上に存在しない。 神を信じる者たちにとって、最もジレンマを感じるところである。 しかし、正解は神だけが持っておられる。 しかも、神は神にとっての正解であって、私達の求める回答とは違うのだと思う。 仮にそうであっても、私達は神の答えを正解として行くのである。 結果、そこに浮かび上がって来るのは、私の様な塵から造られた罪びとが、罪赦され、解放されたということである。 (こう思う私の考えも、ヨブを訪問した3人の友人の一人でしかないように思う。)

敢えて言おう。 「それでも・・・だからこそ・・・神を信じる。」のである。 信じられない場面でこそ、信仰の力が発揮されるのだから。 正解は神だけが持っておられるのだから。

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