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■ 語られるに時があり、聴くに時がある / 創世記13:1~18 (2011-01-23)

アブラムは神に導かれて、カナンへと入って行った。 ある場所、モレの樫の木の所に来た。 当時、そこにはカナン人がいた。 そこで主は彼に現れた、と聖書は言う。 そして仰せられた。 「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」 アブラムは主のために祭壇を築いた。 それは彼の主に対する感謝と畏れによるものであったからだと思う。

だが彼は更に移動した。 既にカナン人が居たからであったろうか。

私は思う。 この日本でクリスチャンとして、堂々と大胆に生きることは、そう簡単ではない。 天地創造の神、十字架の主イエスを信じて生きることは決して容易くない。 地域への参加、まるで偶像礼拝のコミュニティに飛び込む思いである。 あたかもカナン人の中で生きる様なものだ。 だから、アブラムも南へ移動して行ったのか・・・

アブラムは更に進んで死海の近くまで来た。 そこにはベテルとアイという二つの町があった。 その二つの町のちょうど中間にアブラムはテントを張った。 昔、オズワルド・チェンバーズ先生はこう言っている。 「ベテルは神の側、アイはこの世の側」と。 そう考えるとアブラムはまさに、神とこの世の中間に自分の位置を定めたのである。 それは確かに安心もあるだろう。 だが、神への信仰が強くなる場所でもない。

私達が人間社会のどのへんに自身を置くか、それは難しい選択である。 日々、自分の信仰を問われるからだ。 一体、自分はどちらへ重心を傾けているのか、毎日思わされる。 いわばシーソーの中心点に居る思いである。 勿論、生き方によっては、最も信仰が育てられる場所であり、用いられる場所でもあることは確かである。

アブラムは更に南へと進む。だが、進む毎に乾季が増し加わり、彼は遂にエジプトまで足を延ばした。 エジプトで彼らを待っていたものは、非常な身の危険であった。 そのためアブラムは自分が生き延びることを優先し、美しい妻サライを「妹」と偽って王宮に差し出した。 確かに腹違いの妹であったが、今はれっきとしたアブラムの妻である。 この曖昧は私達への誘惑とも言える。 決して嘘ではないが、見方を変えると決して真実ではない。 人間が神の前にあって、最もおぞましい存在に思える場面である。

だが主はアブラムに対する警告ではなく、エジプトの王に対して災いをもたらし、サライがアブラムの妻であることを伝えた。 不公平である。 騙したのはアブラムであり、落ち度はアブラムにある。 だが、神は王を罰した。

私は想像する。 神は幾度もアブラムに警告の言葉を掛けられたのだが、アブラムには主の声を聴く心が無かったのだ、と。 だから神はエジプトの王の耳を開かれて、真実を伝えられた、と。

神は神の民に対して不公平に思えるほど、愛を施され、守っておられるのでは。 もしかして、私達が自分を余りに真実な者と過信してしまって、神の愛の不公平に気づかないのではないだろうか。

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