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■ 恐れるな。わたしはあなたの盾である。 / 創世記15章1節 (2011-02-06)

神さまは私の人生に「二つのハードル」を置かれたと思う。 一つ目はイエスを心にお迎えすること。 つまり、イエスを信じ、救われることである。

二つ目は人生を通して、神への信頼度を高めること。 ノホホンと生きていて、神への信頼度は高まらない。 人生は悩むことが多く、迷うことも多々あるが、それらのすべては神への信頼につながって行く。 一見、ネガティブに思える、それらの出来事や物事も私達の信仰を鍛える役目を負っていると思う。 一つ目のハードルにせよ、二つ目にせよ、詰めの選択は私個人であり、あなた個人である。

信仰生活で大切なポイントがある。 それは「信仰のフィルター」を通せば、神のみ声を聴けるということである。 例えば一人静かに座っているときも、心の中には様々な思いがあり、声も聞こえる。 頭には色々な出来事が蠢いている。 そういう中で「主よ」と祈っても、期待する主のみ声は聞き取れないい。 そういうとき、ふと「フィルター」があればいいな、と感じた。 今、私に必要のない考えや思いをすべてフィルターを通して濾せれば、実に澄んだ心となり、祈りも素直になり、整えられて主のみ声を聴くことができるからだ。

アブラムはその夜、今日までの出来事を思い浮かべ、瞑想していたと思われる。 様々な思いが巡っては消え行った。 ある瞬間、彼の思いが神に向けられた。 集中していた。 そして思った。「主は確かに、ここまで導かれた。財産も家畜も、しもべも増えた。ウルに居た時とは大違いだ。確かにすごい変化だ。だが、主が果たしておられないことがある。 それは・・・」 そのとき、アブラムは神のみ声を捉えた。(つまり彼のチューナーが神の声を捉えた。) 聖書は言う。 アブラムは幻のうちに臨み、こう仰せられた。 「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」 主は彼の心を見ておられた。

同様に、主は私達の心を見ておられる。 神の言葉の裏に意味があったと思う。 「あなたは、わたしから目をそらしてはならない。 不信仰になってはいけない。 現実だけに目を奪われるな。」 但し、主は一言だけアブラムに言われた。 「アブラムよ、恐れるな。」

思い起こせば、イエスを信じようと思ったとき、それまでの人生で感じたことの無い「ある意味の恐れ」を感じた。 それを踏み越えて、「私は罪びとでした。」と告白した。 それ以降、教会の前で自由にそれを言えた。

クリスチャンになった後、幾度も挫折し、よろめいた。 「もうクリスチャンを辞めたい、」とさえ、幾度も感じた。 幾年もグルグル同じ場所を回っていた。 自分の力で信仰を造っていたのかも知れない。 要するに、「日曜朝のクリスチャン」であった。

しかし主は私にそこから脱出する道を備えられた。 そして私はそれを選んだ。 それまでの神への無関心と恐れは、神への愛と変った。 その時、イエスのことばが私の霊の耳に聞こえた。 「恐れるな!勇敢であれ!わたしは既に世に勝った!」(ヨハネ16:33)

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