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■ 太陽と月が消えた日 / 使徒の働き27:11~27 (2011-03-13)

まさに未曾有の出来事であった。 天変地異そのものに思えた。 テレビを通してみる風景は、この世のものではなく、コンピューターグラフィックの画像であって欲しいと願った。 美しい日本の港町、漁港を襲った大波のうねりはいかなる物をも、ものともせず呑み込み、押し流し、さながら大蛇が家や車をその背に乗せてうねって進み、また引き返すがごとくであった。 美しく手入れされ、やがて苗が植えられるのを待っている田んぼ、そして作物の種を待つ畑、すべてを容赦なく押しつぶして行った。

家々はあまりにもあっけなく、水に浮かびあがり、為されるが儘であった。 人々が慣れ親しみ、生活を営んでいた路地も広場も区別なく容赦なく呑まれて行った。 逃げ惑う車のドライバーはどんな気持ちだろう。 多くの家々、そこに人影が画面からは見えないけれど、無事に逃げられたのであろうか。 人生観を見失う程に、千年に一度あるかないかの大災害は、こうして現実に起こったのである。

被災者の心に今、去来するものは・・・ 家も財産も、伴侶も子供達も、親も・・・一瞬に奪い去られた心に何もあろう筈がない。 張り裂けそうな心を辛うじて耐えて、目の前の数分を生きているのだろう。

あの恐ろしい津波の進む画面を見、思い出すだけで辛く悲しい。 人とは一体なんだろう。 蟻んこに過ぎないのだろうか。 被災した方々のために、何を祈れるだろう・・・。祈りさえ出来なかった。

日曜の礼拝に与えられたMessage。 一つに大自然には大自然の営みがあるということ。 二つ目、これは人間界への仕打ちではない。 人間を苦しめるべく、起きたことではないと。

神は大自然を造られた。 人類が営々として子々孫々へと継承存続するようにと神がくださった大自然である。 山を見て人は偉大なる自然に心かきたてられ、しきを見て人生を重ね合わせ、田畑から食べ物を得、繰り返し繰り返し、恵みと祝福を共有し共存してきた。 だが、大自然には剤自然の独自の行動があるのだ。

人間が大自然を研究し、知識と英知を得た。 しかし、人間は大自然を従わせることは出来ない。 それは同時に神に対しても同様である。 そのことをもう一度考えさせられる。

人々の心から太陽も月も消えた日。 2011年3月11日午後2時46分。 今から約2千年前、地中海を漂流していた船があった。 行く先はローマを目指していたが、既に嵐に翻弄され、無抵抗の様相を呈していた。 船荷を捨て、希望も捨てた。

『太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。』使徒行伝27章20節

文字通り、船の人々の目にも心にも太陽はなく、月もなかった。

だが、船中で一人の男が異彩を放った。 何故か・・・ 前夜、彼は神のことばを聞いたからである。

昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、 こう言いました。 『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』 ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。 私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」

信仰とは太陽でもなく月でもない。 しかし、永遠に輝く光であり、希望である。 この絶望の雲に覆い隠された様な現実と時間、だが創造主の賜物は必ず希望をもたらす。

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