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■ それでもあなたは救い主なのか / ルカ23:32~48 (2011-04-17)

今年、3月11日午後2時46分、あの大きな地震、そして初めて目にした大津波。 生涯忘れ得ないものだった。これは大変なことになったという思いは当然であったが、具体的に心で整理がつかなかった。 テレビの大画面で見ていた。凄まじい津波が呑み込んで行く。 あの家の人たちは非難したのだろうか? 逃げ惑う様にしか見えない車は、右往左往しているようにも見える。 どうか逃げ切って欲しいと思いつつ、大水に浮かんで玩具の様に弄ばれる何十台、いや数百台の車。

それから一ヶ月以上経った。 一万をゆうに越す死者の数。更に同数の行方不明者。 限りなく悲しいエピソードは毎日届く。 その度に胸が詰まる。 人生観を失った。 そして私達はこの大惨事を相対的に見た。

せめて家族の写真をと、ガレキの山を捜し歩く人々がいる。 生きて来た証拠が欲しいのだ。 町並みも家も家族も消えた。 過去が消えて何も無い。 だから、せめて何らかの証拠が欲しいのだ。 テレビ画面の向こうでなく、目の前の人々が気の毒で涙が流れる。 私達は目撃者でなく、当事者の一人になった。

イエスは大勢に慕われた。彼は必要とされた。 だが、もう一方で彼は憎まれ、妬まれ、裏切られた。 そして以来二千年間、彼は今も尚、否定され続けている、と思う。 私達人間は彼を求め、慕い、そして時には感情で否定もする。 それでも彼は人々を愛し続ける。 だから、私達は神を愛し礼拝できる。人間とは実にしたい放題だと思う。

イエスは極悪人と一緒に数えられ、そして十字架刑を受けた。 この世で最も残酷な殺し方、それが十字架である。 少しでも長く苦しみを与え続ける。血は止まることなく流れ続ける。 痛みに耐えかねても死ねない。失血死で死ぬか、遂に痛みが沸騰して息絶えるか、である。 あの刑場で母のマリヤは何を思い、何を叫んだのだろう。 我が身が引き裂かれるよりも辛かったであろう。

イエスの隣の受刑者が喚く。 「お前は神の子だろう。自分で降りて、俺たちを救え!」 その男に向かって、もう一方の受刑者が叫ぶ。 「何を言う。お前も俺も同罪だ。しかし、彼は何もしなかった。イエスさま、あなたが御国の位に着くとき、どうか私を思い出してください。」 イエスは彼に言った。 「あなたは今日、私と共にパラダイスにいる。」

一人の男はイエスを第三者的な立場で見た。 しかし、もう一人はイエスに対して当事者になった。 イエスと相対的な立場に自分を置いた。 そして彼は自分を悟り、イエスを知った。 此処だ、と思う。 そして彼は受刑者として死んだが、パラダイスに入った。

誰でもイエスを評論し批評し、御託を並べられる。 だが、彼と対峙することは避ける。 それはイエスと相対的な位置に立つことを恐れるからだ、と思う。 そしてイエスを避ける。 それが人間なのだと思う。

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