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■ 信仰の勇者たち / ヨハネの福音書21:9~23 (2011-05-01)

イエスがよみがえられて後、数度弟子たちの前に現れた。 ある朝、弟子の幾人かがガリラヤ湖で漁をしていた場面があるが、実に愉快である。 岸辺から弟子に向かって叫ばれたイエスに弟子達は驚いた。 そのとき、大漁の網を引き上げていた舟上のペテロに向かって、ヨハネが小声で言った。 「主です!」 ペテロは裸だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ、と書いてある。 通常は来ているものを脱いで飛び込むのに、と思った。 だが真実は水の中に飛び込んで隠れたのではなく、一刻も早くイエスを拝するためだったらしい。

岸辺に上がった弟子達は、そこに炭火がおこしてあるのを見た。 イエスと弟子達は車座になって魚を焼き、朝の食事をとった。

だが、この場面、実に居心地が悪く感じるのは私だけであろうか。 イエスは殺される前のみ体ではない。 弟子達は実に妙な感じがしたであろう。 そして弟子の殆どは、捕らわれるイエスを放って逃げ散ったのである。 ペテロなど三度、私はイエスなど知らない、と言った。 そういう色々な思いと感情が交錯した気持ちで、弟子達は黙々と朝食をしたことが伺える。

その様な場面で一番初めに沈黙を破られたのはイエスであった。 「ヨハネの子、シモン。あなたはここにいる誰よりも、わたしを愛するか?」 突然投げかけられた質問は、ペテロにとって改めて針の筵に座らされた思いであったろう。 仮にそうでなくとも、イエスの顔を正面きって見られなかったペテロであった。

イエスの問われた愛は詳細に考えると、この様になる。 ≪人がみ父を愛するが如く、理性的で、意思的で、霊的献身をもって≫、アガペーの愛である。 それは、かつて地上に存在し得ない様な高尚な愛の資質であった。 増してや我々日本人には逆さになっても飛び上がっても、届かない様な次元高い愛である。

ペテロはイエスの顔を下から斜めに伺う様な角度で答えた。 「主よ、そうです、私があなたを愛していることは、《私が親しい友に対するような、深い、人間特有の、人格的な愛情をあなたに対してもっていることは》、あなたがご存知です。 それはあくまでも限界ある愛、フィレオと表現された資質の愛であった。 以前であれば、「主よ、他の誰が躓いたにせよ、私は決して躓きません。あなたと一緒なら死んでもみせましょう。」と断言したペテロは既にそこにはいなかった。 アガペーとフィレオ、言い換えれば天をも突き破る愛と1メートル半ば(つまり人間)の愛と言える。 それは天から降りた愛と、地上に張り付く愛と言える。 古来、日本に存在してきた愛という言葉は、殆どの場合、男女関係にのみ限定されていた。 果たして今は? 親子兄弟、師弟、友情、近隣、同胞、同国人、これら全てに当然の接点と理由がある。 しかし、それはペテロが今、言える精いっぱいの言葉であり、誠意から出た言葉だった。

クリスチャンとは、この人生をかけてアガペーと向き合って行くことである。 無理、当然かも知れない。 しかし、今日もイエスは私達一人一人を、『み父を愛するが如く、理性的で、意思的で、霊的献身をもって』 愛しておられるのである。

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