■ 後ろ髪引かれるを断ち切って / 創世記19:15~29 (2011-05-22)
陸地における世界で最も低い場所、それが死海の湖面である。 海抜マイナス397メートル、地中海の暑い気候に加えてこの低さは何をもたらすか? そこに文字通り逆盆地である。 渇いて暑き地方、熱は更に低地に留まり、まるで中華鍋の底状態である。 夏など飛んでいる鳥が脳震盪をお越し、落ちてくるとさえ言われても実感である。
遠い昔、その地に天変地異が迫っていた。 人間達の際限なき欲望と汚らわしき堕落に対し、神が鉄槌を下される寸前だった。 ロトの妻と二人の娘の手をとって、主の御使いは脱出を急き立てた。
しかし、人間とは住み慣れた環境がどれほど醜くても、いざ離れるとなると、やはり未練が湧くのである。 後ろを振り返るな、と言われるとやはり振り返ってしまうのである。 人情と言おうか、未練と言おうか、生活してきた場所が故郷になったからだろう。
御使いは四人に言った。 「何が起こっても、決して後ろを振り向いてはならない!」 地獄絵図は始まった。 住民の断末魔の叫び、低地の町々に襲い掛かる高熱の硫黄の火は、容赦なくすべての命を焼き尽くした。 異様な音と叫び声、逃げ惑う様子を感じたロトの妻は、思わず振り返ってしまった。 瞬間、彼女は動かぬ塊となった。
私達は聖なる主の血潮によって洗われた。 この身と魂は、イエスの血によって清められ、常に生き給う神の子とされた。 ならば、今はこの世に未練も情もあろう筈がない。
だが・・実際は違うのである。 振り向き、振り返り、ある場合は戻ってしまう時だってある。 ああ嘆かわしきは我が身と心である。 あれほど神に感謝し、仕え、喜んでいた日々であったのに。 文字通り、主の前にお詫びと謝罪の日々でしかない。 ならば、この世を脱出し、新しい天なるエルサレムにしか居場所はないのであろうか。 いつまで敗者の砂を噛み潰すのであろうか。
主はきっと答を下さろう。
「主よ、いつまででしょうか」(詩篇89:46)マックス・ルケード師の文より。 私達は祈る。 「主よ、いつまでこの病気に耐えなければならないのですか。」 もしかして主は言われるかも知れない。 「あともう二年患うだろう。」
私は祈る。「主よ、いつまでこの妻に我慢しなければならないのでしょう。」 主は言われる。「子よ、あなたの人生が続く限りだ。」
私は言う。「主よ、いつまでこの給料で我慢しないといけないのですか。」 主は言われる。「あと十年、あなたのローンが終わるまで。」
ああ、なんと幸せなことだろう。 神さまは無言のまま、忍耐と寛容の限りを尽くし、アガペーの愛によって罪多き我が身と魂を見守っていて下さるのだから。 答を用意されているにせよ、聞かせないことにより、私達の変化を待っておられる。 本当は知ってはならない答えを敢えて隠し、今日も祈りの場所へと導いて下さるのだから。 だから、この世にあっても後ろ髪引かれることなく、主の御足の跡を追わせていただこう。