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■ 初めに神が / 創世記1:1~4 (2011-06-19)

「初めに神が天と地を造られた。」 この、お方こそがキリスト者の神である。 だが、日本人がイメージする漢字の「神」ではない。 聖書の神は「ヤハッ」「ヤハウェ」と呼ばれたが、ユダヤ人は決してその御名を口にしなかった。 それほど主を恐れ、深い畏敬の心情を示したのである。 そのため彼らは母音を変えて振り、発音を変えて「アドナイ」(日本語では主)と呼んだ。

では大和の国民は神を何と呼んだか。 「カミ」である。 やがて後、中国から渡ってきた漢字を当てはめたとき、カミは神となった。 日本人はカミを人と自然の延長だけで位置づけた。 つまり、自然界も人もカミになれたのである。 海、川、滝、沼、更には石、山、丘、木、月、太陽をカミにした。 恐れを感じさせるすべては、カミに祭り上げられた。

外国から入ってきた神々など、数え切れないほどカミとなっている。 そして人間も、である。 カリスマ性を持った人、不条理の中で死んで逝った人、凄まじい戦績を残した人、偉業を成し遂げた人、みんなカミに祭りあげられた。 靖国には軍神として、たくさんのカミガミが祭られた。

創世記、一章二節「地は形なく、むなしかった」と聖書は語る。 神が「光よ、あれ」と言われると光りが出来た・・・ 上記、この短い二行に私は人間の生き様を想う。 以前私もそうであったが、誠の神を知らぬ人間の心は虚しい。 虚しいから、満たされるために神を求める。 それは信仰対象の神ではなく、我が心を満たす対象である。 家、財産、仕事、金、地位、権力、栄誉、快楽、すべてカミとなり得る。

そんな人生であったが、とあるページでイエスに出会った。 イエスが出会って下さったのである。 イエスが私を呼んで下さったのである。 イエスが私のために道を敷き、そこを歩ませ、呼び寄せられた。 そのときは、自分が選んだ信仰と思ったが、ずっと後になって、そうでは無いことを知った。

やはり神はすごい、と思う。 この弱き、欠けだらけの者を救い上げ、洗い清め、抱き寄せて下さった。 おぞましき汚泥で汚れたこの身と心を、主は清き尊い血潮で洗われた。

宮城県、南三陸町の高台にある志津川高の野球部。 3月11日の練習中、激しい揺れの後、大津波がふもとを襲った。 生徒達は校庭から駆け下りると、ふもとにあった老人ホームから次々とお年寄り達を背負って校庭に避難させた。 そのとき30人が助け出されたというが、亡くなった方も大勢いたそうだ。 野球部主将の生徒はその時、背負った男性の叫び声が今も耳に残っていて忘れられないと言う。 「神さま、助けて」

やはり、人間はヤハウェなる神の被造物である、と思った。

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