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■ 試練はテスト / 創世記22章1~2 (2011-06-26)

聖書が「試練」と語るとき、それは多くの場合「テスト」を意味する。 通常テストとは、技能、学識、資質、経験等が充分に備わっているかを計ることである。 だが、聖書におけるテストとは、信仰のテストである。 それは神が人に対して与えたもので、苦しみや困難を通して尚も神への信頼を持ちこたえるか、耐えるかを試されることである。

試練として表現すると、どことなく苦しみありきと感じるが、テストと言われると、案外頑張ってみようか、と思う気がする。 ならば、この人生でもそのように考えたら、きっと耐えられるケースも増えるであろう。

福音書の中に「種まきの例え」がある。 蒔かれた種がどこへ落ちたかが問われている。 道端、岩地、何れも種が根を張り、芽を出すには条件が悪かった。 道端に蒔かれた種は、人に踏みつけられ、または空の鳥がついばんでしまった。 これは「人の心」もそういうものだと教えている。 せっかく蒔かれた「神の言葉」も、聞いた人の心に根を張る間もなく、悪魔が取り去ってしまった。

岩地に蒔かれた種は直ぐに芽を出したが、土が薄かったので枯れてしまった。 岩地の様な人の心とは、柔らかな部分が薄っぺらで、神の言葉を深く受け入れない。 初めは喜んで神の言葉を聞き、しばらくは信じてみたが、深いところで考えていなかったため根も浅く、試練が来たとき、すうっと身を引いてしまった。 そして結局、世に帰ってしまった。 考えてみると、本当に大勢のクリスチャンたちがこのような体験をしてしまっている。 さぞかし、悪魔は高笑いし踊っていると思うが、まことに残念至極である。

確かに自然界の岩地であるなら、幾ら耕作しても良い地にはならない。 しかし、人の心に「神の鍬」が入るなら、やがていつか「良い地」になると信じる。 神は諦めずに開墾し、鋤をいれ、用水を引き込まれるだろう。 時を経て、昔の岩地も今は良い地となり、神さまのテストを受けることさえ可能になった。 受けるに値する人間性は神が造られたからである。

テストとは受ける側にとって、ある意味実に誉れ高く、感慨深い思いさえ与える。 ましてや聖書は言う。 「神は真実な方であるから、耐えられないような試練は与えられない。」 だが、それにしてもアブラハムに与えられた神のテストは実に厳しいものだった。 「あなたの子、あなたの愛する一人子イサクを連れてモリヤの地に行き、その山の上で『全焼のいけにえ』として、わたしに捧げなさい。」(創世記22章2節)

アブラハムにとって人生最大の苦難が訪れた。 しかもアブラハムの人生が集大成を迎えた時だった。 否、集大成と考えるのは人間の勝手かも知れない。 人生様々あったが、今は老いを迎え、家族は平穏無事で過ごしている日々。 そういう時こそ、試練が襲うことが多々ある。 場合によっては、試練はいつだって目の前に潜んでいる、とさえ言える。 だからこそ、神の前にしっかり立っていよ、と言うことなのだ。 試練とは、試練そのものの結果は目に見えるが、試練そのものは人の目には見えない。

このとき、人は誰に助けを求めるだろう? 天と地を造られた神以外に誰がいると言うのだろうか。

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