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■ 山上の礼拝 / 創世記22章1~8 (2011-07-03)

祈りには幾つかの大切な要素が含まれていると思う。

1、 祈りは創造主である神への信頼度を如実に表す。 神さまを信頼すればする程に、自然と祈りは積まれると思う。単純明快に人間の信仰がそこに集中する。そして、そういう人は本当に幸せであると思う。

2、 それは同時に「神が聞いていて下さる」という確信の表明である。祈りが途絶えるのは神が聞いて下さるか否かがハッキリしなくなった時である。あちらへ届かないボールを誰が投げるだろうか。返って来ないボールを誰が投げるだろうか。

3、それは自分との格闘であり、また神との格闘と言えるかも知れない。信頼も確信も人の内なる思いが優先する。自分で自分を押し倒し、神の前に出て行くぐらいの意思が必要な時がある。そして自分と神との霊的取っ組み合い(相撲かレスリングか?)の様な場面もある。マルティン・ルターの祈る姿を見て、彼の妻が言った。「神が亡くなりました。」 それを聞いてルターは自分の祈りの姿勢を悟り、改めて姿勢を前向きにしたそうだ。

アブラハムが神の声を聞き、神の仰せのとおり、息子を連れてモリヤの山へ向かった。 「あなたの愛する一人子イサクを、山の上で生贄として、わたしに捧げなさい。」 翌朝早く、アブラハムは二人の若者とイサクを連れて山へ向かった。 家を出て二日の間、アブラハムと若者たち、そしてイサクの会話を聖書は記していない。 なぜ?・・・それは読者に想像させるため、と私は考えた。 アブラハムはどんな気持ちで歩いたのか。 それはアブラハムが神に祈り続けた時間だったと思う。 人間的会話など、その状況において価値も意味も持たない。 アブラハムは神に向かって心を一極一点に集中し、一切の雑念と迷いを吹っ切って、神経を研ぎ澄まして行ったと思う。 この愛おしい、幼いわが子を殺すべく、年老いた父はその用意をすべく、心を神に託して行かなければ、とても不可能な行動だったからだ。

神がアブラハムに求められたのは、生贄を伴う礼拝である。 イサクは礼拝において捧げ祭る文字通り生きた生贄であった。 (この様な宗教儀式は人身御供として大昔から世界各地で行われていたが、アブラハムのように個人的な礼拝で自分の子を生贄として求められたケースは先ずない。増してや、人間の側ではなく、生ける神が求められたのであるから。)

遠い昔、礼拝は神をほめたたえ、己が罪の赦しと、神への和解のために生贄を捧げ、感謝と願いを祈った。 昔と現代における礼拝の違いは、生贄は既にイエスという永遠の捧げものによってなされたため、捧げものはお金などによってなされる。 しかし、礼拝は私達の価値とするもの以上に、神において価値あるものが捧げられるべきである。 確かに金は価値あるものであるが、神にとってそれ以上に価値あるものが存在する。 それは・・・? 礼拝する「人間の心」である。 神への忠誠と信頼の限りを尽くして、人はその霊と魂を通して心から主の前に額ずくとき、神が求められる優れた礼拝への姿勢となる。

ヨハネの福音書4:23~24 「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

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