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■ 祝福の夜明け / 創世記22章12~24 (2011-07-24)

神さまは時として私達を試される。

神さまに対して、私がどれだけ従えるか? 私にとってこの世で一番大切なものは何なのか? 神以外に重要な存在がこの世にあるのだろうか? 人間にとって、この世で大切なものは、たった一つなのである。 そのとき、TEST(試練)を与える神も、与えられる人間も真剣勝負である。 以上、いつの時代であっても私達が問われること、それがアブラハムの受けたTESTであった。

試練が与えられるとき、その理由(わけ)を私達は知らない。 ただし、神から与えられたであろうことだけは「おおよそ、そうであろう」と考えてはいる。 だが、「何故なのか?どうして今なのか?このことにどういう意味があるのか」などは分からない。 しかし、それでも神を信じるというより、分からないからこそ、神を信じるというべきである。 それが相対的信仰への決別であるからだ。

内村鑑三師の言葉に圧倒される。 『祈りが聞き届けてもらえないことこそ、キリスト者にとって神に近づけるときなのである。 モーセも、イエスも、パウロも聞き届けてもらえなかった祈りは山とあった。そのことが本当の意味で、彼らを神に近づけた。』 確かに言い得ていると思った。 絶対者は唯一、神だけであるから。 もう一度、私達は神と人の立ち場の違いを考え直す必要がある、としみじみ思った。

私達は時として大きなものを失って来た。 しかし、まだまだ恵まれている。 果たして、この世で本当に必要なものはなんだろう。 これを失ったら生きては行けない、と思うものはあるだろう。 だが、本当に必要なものは「失って見なければ分からないもの」と思うのである。

東日本大震災で数十万の人々が家族、家、土地、仕事、財産、故郷を瞬間に失った。 私達から見ても、この世が価値とするものをすべて失った。 でも、あの人々はめげないで頑張っている。 必死に立ち直ろうとしている。 その強さに、私は理由を見つけられないでいる。 自分だったら、とっくに負けているだろう。 人間はどうして、あれほど強く、そして耐えて生きられるのだろう。

もしかして、神は彼らの心に語っておられるのだろうか。 「死ぬな!わたしがあなたを助けるから。希望を持て!」と語っておられるのだろうか。

やはり、人は神の被造物だと思う。 無言の内に唯一、まことの神がクリスチャンであっても、仮にそうでなくても、きっと語っておられるのだと思う。

いつの日か神はあの人たちに、きっと祝福をもたらされる、と信じる。 「あれほど辛い出来事を私達は乗り越えて来た・・」 神を信じられない日に信じることこそ、信仰の値打ちだから。

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