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■ クリスチャンこそ求道者 / マタイ19章16~26 (2011-08-07)

信仰の道を求める人間として、最も難しい取り組みは「己をいかに低くできるか。」であろう。 その過程で自分を空しくすることは、実に難しい。 なにせ自尊心がある。プライドも尊厳もある。 それらを殆ど押し殺して、であるからだ。 元来、人間が持っている本能の半分を無視することになるからだ。

だが、聖書はイエスをこう語っている。 「イエスは神の子のあり方を捨てることが出来ないとは考えないで、ご自分を無にして十字架の死にまでも従った。」 また別の訳は、「ご自分をむなしゅうして・・・」とある。

そう、聖書が私達に求めるゴールは、イエスの選択された場所ではないだろうか。 だから、パウロはそこをあえて掘り下げて伝えている。 本当に「自分を無にして」でなければ、全面的に神に従うことは出来ない、と思う。 何故なら、モグラ叩きゲームではないが、直ぐにあちこちにヒョイヒョイと自分が出てしまう私であるからだ。

実にクリスチャンとは幅広い世界に置かれている、と思う。 ただ信じているだけの人から、果ては自分を無にしている人まで、ピラミッド型の中で蠢いている。 だから神の大きな憐れみと寛容を認めざるを得ないと思うが、長いマラソン・レースを走っている内に、あの様に高貴で無私な場所への到達が可能となるのであろうか。

一人の金持ちの青年、完璧で道徳的にも優れたレベルで生きている、と彼は自負していた。 しかし、彼は自が持っていないものを知っていた。 それは「永遠の命」であった。

彼はイエスの前に来てこう言った。 「永遠の命を手にするため、私は一体何をしたら宜しいでしょうか?・・・」 彼は折角イエスのところに赴いて来たのに、イエスその方自身と言動を、あまり知らなかったと言える。 イエスは言った。「あなたの財産を売り払い、貧しい人たちに分け与えなさい。その上でわたしについて来なさい。」 イエスは彼に対し、「得る」とか「する」とかで無く、「捨てる」「失う」「他者に分け与える」が必要であると言われた。 それを聞いた青年は悲しい顔をして去って行った。 彼の人生で持ち過ぎることの困難と罪を初めて知らされた出来事だった、といえる。

マルティン・ルターはこう述べている。 「神は無から世界を創造された。ゆえに人は無にならねば心から神を知ることは出来ない。」 誰彼のためでなく、ひたすら神に生きるために、神と生きるために、神に従うために、自分が空しくなる。 「空しくする」というより、「空しくていただく」のであろう。 それを為すは神であるから。

そして人はリバイブされる。 本当は空しい自分を悟り、神の前に出たとき、とめどなくリバイバルされ続ける。 リバイバルは自分で起こすのではない。 神が起こして下さるのでだ。 そう簡単に無になれない自分を知ったとき、人はリバイバルへの道を歩き始める。 自分で自分を捨てられない自分に出会って、人は心から神の偉大さを知り、己の弱さを知る。

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